海を渡って、東へ、西へ

 1870年代には、汽船や鉄道が発達しました。イギリスで考案されたローンテニスの用具セットは、東回りでヨーロッパからアジアへ、そして西回りで北米大陸へと運ばれてゆきます。

 大西洋を越えたアメリカへのローンテニス伝来については諸説ありますが、1874年秋にはボストン、ニューポート、ニューヨーク、フィラデルフィア、ニューオリンズ、サンフランシスコ、そしてアリゾナの駐屯地(キャンプ・アパッチ)で行われていたことは確かのようです。

 もっとも有力な説は「1874年春に、両親の出身地であるイギリス領バミューダに旅したメアリー・ユーイング・アウターブリッジ(Mary Ewing Outerbridge)が、イギリス軍駐屯地でイギリス士官たちと初めてローンテニスを楽しみ、駐屯地の売店で購入したネット、ラケット、ボールなどの箱入りセットをニューヨークに持ち帰ってプレイした」という説です。しかし、その時期については異論があるそうです。

 アウターブリッジ説と並んで有力なのは「1874年夏に、ニューイングランドのボストン郊外のアプルトン家で、ジェームズ・ドワイト(James Dwight)博士とフレッド・シアーズ(Fred Sears)たちが、同家にあったローンテニスの用具セットを庭に出してプレイした」という説です。

 両方の説にはそれぞれの根拠があるようですが、いずれにしてもウィングフィール少佐考案のローンテニスやその類似品がアメリカに来ていて、1877年にウインブルドンの競技大会が始まってからも用具や新旧のルールの違いはそのままにプレイしていたようです。当初はイギリスから輸入していたHorsman社やPeck & Snyder社も、やがて米国製を販売するようになっていきます。

 メアリー・アウターブリッジの場合は、兄 (A. Emilius Outerbridge)が理事をしていたスタテンアイランド・クリケット・エンド・ベースボール・クラブ(Staten Island Cricket and Base Ball Club)の一隅にコートを設置することができました。

 1872年に設立されて、ニューヨーク湾内のスタテンアイランドで活動していた同クラブの会員は、はじめは男性に限定されていました。しかし女性も参加できるローンテニスが導入されてからは女性会員が受け入れられ、1877年には女性部門として「Ladies' Club」(レディース・クラブ)が発足しています。

 1877年6月13日の《The New York Times》紙には「OUT-DOOR SPORTS FOR LADIES」という見出しで、前日にレディース・クラブが同クラブで開催したガーデン・パーティーのようすが紹介されています。パーティーでは、アーチェリー、ローンテニス、クロッケーが行われ、軍楽隊の演奏もあって、参加者全員が楽しめる内容でした。

画像: 1877年の《Daily Graphic》紙に掲載されたガーデン・パーティーのスケッチ画。ローンテニスのほかにも、クロッケー、アーチェリーなどが描かれている。出典◎『Fifty Years of Lawn Tennis in the United States』

1877年の《Daily Graphic》紙に掲載されたガーデン・パーティーのスケッチ画。ローンテニスのほかにも、クロッケー、アーチェリーなどが描かれている。出典◎『Fifty Years of Lawn Tennis in the United States』

 運営にあたったのは、アウターブリッジを含む12名の独身女性と、7名の夫人、そして男性会員たちでした。また、この時代に「SPORTS」という語が使われ、クラブ名にはイギリスの国技といわれるクリケットと米国の国技といわれるベースボールが並んでいること、そしてローンテニスやアーチェリーなども随時行われ、さらに女性によるクラブ活動が活発化していた実例として、スタテンアイランド・クリケット・エンド・ベースボール・クラブの活動は注目に値します。

 1877年のガーデン・パーティーで行われたローンテニスの試合には、クラブ独自のルールが適用されていました。使用ボールは中空ゴムボールですが、天候によってカバーされたボールとカバーされていないボールを使い分けたり、スコアリングがラケッツ式(1-2-3-4と加点)だったりする点で、1875年のメリルボーン・クリケット・クラブ(M.C.C.)による改訂ルールに似ています。

 1880年9月にスタテンアイランド・クリケット・エンド・ベースボール・クラブ主催の全米チャンピオン大会に参加したドワイト博士たちは、ボストンで使い慣れたイギリス製輸入ボールよりもかなり小さい使用ボールや、ラケッツ式スコアリングに戸惑ったりしているうちに敗退してしまいます。

 別の日に行われたスタテンアイランドとフィラデルフィアのクラブ対抗戦でも、ネットの高さの違いが混乱を招きました。当時は、東海岸でさえも各地各クラブそれぞれのルールでプレイしていたのです。

 これらの経験から、米国でも統一ルール、コート、ボールを制定する必要が生じてきました。かくて1881年5月、スタテンアイランド・クリケット・エンド・ベースボール・クラブ(代表:Eugenius
H.Outerbridge)、オール・フィラデルフィア・ローンテニス・コミッティー(代表:Clarence M. Clark)、ビーコンパーク・アスレティック・アソシエーション(代表:James Dwight)の呼びかけにより、33クラブの代表がニューヨークに集まり、「The United States National Lawn Tennis Association」(米国ローンテニス協会)が設立される運びとなりました。

 ルールは「The All-England Marylebone Rules for 1881」(ウインブルドンのオールイングランド・クラブとM.C.C.による改訂ルール)が採用され、スコアリングはテニス式になります。

 使用ボールについてはイギリス製か米国製か意見が分かれましたが、その年はウインブルドンの競技大会でも使われている英国製のAyres(エアーズ)が使用されることとなりました。直径は2.5-2.5625 inches(約6.4センチ)、重さは1.875-2 ounces(約57グラム)で、現行とほぼ同じです。

 発足したばかりの協会が主催するThe First National Championship of the United States(第1回全米選手権大会)は、1881年8月31日、ロードアイランドのニューポート・カジノで開催されました。

画像: 1881年夏に開催された第1回全米選手権大会(男子シングルスのみ)のスケッチ画。参加は25名で、ニッカボッカー姿の選手が多い。会場になったニューポート・カジノは社交クラブで、現在は国際テニスの殿堂(International Tennis Hall of Fame)が置かれ、恒例トーナメントも行われている。出典◎『Fifty Years of Lawn Tennis in the United States』

1881年夏に開催された第1回全米選手権大会(男子シングルスのみ)のスケッチ画。参加は25名で、ニッカボッカー姿の選手が多い。会場になったニューポート・カジノは社交クラブで、現在は国際テニスの殿堂(International Tennis Hall of Fame)が置かれ、恒例トーナメントも行われている。出典◎『Fifty Years of Lawn Tennis in the United States』

【今回のおもな参考文献】※原本の発行順
・「Out-Door Sports for Ladies」(《The New York Times》1877年6月13日号第2面の記事)
・Henry Chadwick『the Lawn Tennis Manual for 1885』(1885年刊、A.G.Spalding & Bros, Chicago and New York)※the Library of Congressでオンライン閲覧可
・Charles E. Clay「The Staten Island Cricket and Base Ball Club」(《Outing》1887年11月号掲載)※オンライン閲覧可
・A.Wallis Myers『Lawn Tennis at Home and Abroad』(1903年刊、George Newness Limited)
・Golden Jubilee Anniversary Committee『Fifty Years of Lawn Tennis in the United States』(1931年刊、United States Lawn Tennis Association)
・George E. Alexander『Lawn Tennis: Its Founders & Its Early Days』(1974年刊、H.O.ZIMMAN, Inc.)
・Jeanne Cherry『Tennis Antiques & Collectibles』(1995年刊、Amaryllis Press)
・『WIMBLEDON: the Official History of the Championships』(2001年刊)※著者などは連載(2)に記載
・Bud Collins『Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia』(2003年刊、Sport Classic Books)
・Warren F. Kimball『The United States Tennis Association: Raising the Game』(2017年刊、University of Nebraska Press)

=ちょっと寄り道=

 1881年、第1回全米選手権でのネットの高さは両端のポストで4フィート(1.219m)、センターで3フィート(0.914m)でした。両端は現行より約2㎝高かったようですが、センターは同じです。

 そのセンターの高さは、どのような方法で維持していたのでしょうか。古いイラストや写真を見ると、自然に中央をたるませていたり、逆に棒のようなもので持ち上げたりしていたようです。

 高さをしっかり維持しているように見える写真は、1883年のウインブルドンのコートで、ネット中央には専用ポストが立ててあるように見えます。ポストの上部でネットを押さえている部分は、残念ながらよく見えません。1892年の写真になると、中央をベルトで下げて、下を固定していることがわかります。

画像: 1883年、ウインブルドンの競技大会終了後、初めて行われた国際試合(英国対米国)の写真。屋根付き観客スタンドも設けられている。出典◎『WIMBLEDON: The Official History of the Championships』(2001年刊)

1883年、ウインブルドンの競技大会終了後、初めて行われた国際試合(英国対米国)の写真。屋根付き観客スタンドも設けられている。出典◎『WIMBLEDON: The Official History of the Championships』(2001年刊)

 専用の器具使用を確認できる資料は『The Lawn Tennis Manual for 1885』です。ネット中央に立てた鉄製のセンター・ポストの上部を曲げて、ネットを下げる仕組みになっていました。

画像: 新製品の鉄製センター・ポスト。苦心の作だったが、競技大会では使われていないようだ。出典◎『The Lawn Tennis Manual for 1885』

新製品の鉄製センター・ポスト。苦心の作だったが、競技大会では使われていないようだ。出典◎『The Lawn Tennis Manual for 1885』

 出版者のA.G.Spaldingはベースボールの選手として活躍し、シカゴおよびニューヨークにスポーツ用具の会社を起こしてスポーツ全般の用具を商っていました。著者のHenry Chadwickはライターとしてベースボールの普及・啓蒙に尽力し、「ベースボールの父」とも呼ばれている人物です。前年の1884年に著した『Sports and Pastimes of American Boys』でも、少年ばかりでなく家族で楽しめるスポーツとしてローンテニスが紹介されていました。

 米国議会図書館のオンラインページ(https://www.loc.gov/discover/)で書名と著者「lawn tennis chadwick」をキーワードに検索し、『The Lawn Tennis Manual for 1885』を閲覧してみてください。以下のような画像もあって、当時のローンテニスを垣間見ることができます。

画像: 足元はニッカボッカーでキャップを被った活動的な男性に対して、動きにくい長いスカートの女性がコートの端に立っている。出典◎『The Lawn Tennis Manual for 1885』

足元はニッカボッカーでキャップを被った活動的な男性に対して、動きにくい長いスカートの女性がコートの端に立っている。出典◎『The Lawn Tennis Manual for 1885』

 なお、米国議会図書館のページで「lawn tennis」だけを検索したら絵画、写真、音楽、ダンスなど、ローンテニスがらみの情報満載でした。

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