日本伝来、初めは外国人居留地へ

 東回りで伝わったローンテニスの用具は、イギリス植民地だったインド、イギリス租界の置かれた上海、そして明治初期の日本にも運ばれてきました。

 幕末に開国して以来、日本には函館、新潟、東京、横浜、大阪、神戸、長崎に外国人居留地が設けられていましたが、特に地の利のよい横浜外国人居留地は早くから商業圏として整備され、1876(明治9)年前後には欧米人の居住人口が1200名を超えています。そのうちイギリス人は、おおよその割合ですが、男性400名、女性100名、子供120名ということですから、家族での居留が増えていることがうかがえます。

 居留地では英字紙(誌)が発行されていて、内外の政治・商業情報ばかりでなく、身近な生活に関する記事を読むことができました。例えば、横浜で発行されていた《THE JAPAN DAILY HERALD》紙の1874(明治7)年4月17日号には、「パーティーを楽しめる正式のクロッケー用芝生コートの設置を希望する」という投稿が掲載されています。

 「The Lawn Tennis Club」の文字が英字紙に出てきたのは、《THE JAPAN WEEKLY MAIL》紙(以下、JWM紙)の1876(明治9)年5月4日号でした。ヨコハマ・クリケット・クラブの年次総会で、同じグラウンドを使用しているローンテニス・クラブとフットボール・クラブにグラウンド維持費を負担する意思があるかどうかを確認することになったという記事です。

 グラウンドとは3年ほど前から工事を始め、この年2月に正式開園したばかりの彼我公園(Public Garden。現、横浜公園)の中央位置に設けられたクリケット競技用芝生地のことです。公園全体は外国人と日本人の共有地で、外国人管理のグラウンドは木の柵で囲まれているだけでしたから、誰もが競技のようすを観ることができました。つまり1876(明治9)年春、現在の横浜公園で行われていたローンテニスは、日本人も外から観ることができる状態だったのです。

画像: 1874(明治7年)から1878(明治11)年にかけて測量が行われた「横濱実測図」。現在の横浜公園は当時の居留地の中央部、外国人居住区と商業地区を分ける日本大通りに面していて、英文で「Public Garden」、日本文で「公園」と記してある。対して、南側の丘陵地に位置する現在の山手公園は、英文で「Foreigners public garden」、日本文で「外国人公園」と記してある。出典◎『横濱実測図』(1883年発行)※『明治・大正日本都市地図集成』(1986年刊、柏書房)の複製版より

1874(明治7年)から1878(明治11)年にかけて測量が行われた「横濱実測図」。現在の横浜公園は当時の居留地の中央部、外国人居住区と商業地区を分ける日本大通りに面していて、英文で「Public Garden」、日本文で「公園」と記してある。対して、南側の丘陵地に位置する現在の山手公園は、英文で「Foreigners public garden」、日本文で「外国人公園」と記してある。出典◎『横濱実測図』(1883年発行)※『明治・大正日本都市地図集成』(1986年刊、柏書房)の複製版より

画像: 横浜公園の日本大通り側口に設置されている説明板「横浜公園の歴史」。左端は日本の灯台設置ばかりでなく、横浜の都市計画にも大きく貢献したR.H.ブラントンの胸像。背後に横浜スタジアムが見える。◎写真は2018年1月に筆者撮影

横浜公園の日本大通り側口に設置されている説明板「横浜公園の歴史」。左端は日本の灯台設置ばかりでなく、横浜の都市計画にも大きく貢献したR.H.ブラントンの胸像。背後に横浜スタジアムが見える。◎写真は2018年1月に筆者撮影

 さらに同年6月17日発行のJWM紙には、「LAWN-TENNIS」と題した長文の記事が掲載されています。こちらの場所は横浜居留地南側の丘上に1870(明治3)年から開園していた山手公園(the Bluff Garden、日本初の洋式公園)で、テニスコートは公園地の北東部に設置されていました。

 記事の寄稿者はイギリス人らしく、「イギリス民族が長年をかけて形成してきた戸外ゲームへの情熱が、古いラケットと子供が使うゴムボール…」とローンテニスを紹介しています。そして過去15年にわたって社会に貢献してきたクロッケーの役目を評価しながらも、長々とその欠点を並べ立て、挙げ句に「クロッケーは無味乾燥でつまらない」と断じています。よほど性に合わなかったようです。

 その上で、ローンテニスは男女がともに長所を発揮できるゲームであり、すべての身体のシステムが活発になると賛辞を述べています。一週間前の水曜日に山手公園で行われた音楽会のなごやかな情景、そしてローンテニスを楽しむ男女と観る人々の「気取りのない陽気な集まり」を描いている文章には、寄稿者の喜びがあふれています。

 同じく6月には、横浜居留地に住むイギリス人画家チャールズ・ワーグマンが発行している英文風刺漫画誌《THE JAPAN PUNCH(ジャパン・パンチ)》にも「Lawn Tennis」と題された漫画が掲載されています。ワーグマンが描いたのは彼我公園のテニスか、山手公園のテニスか、コートの場所はわかりませんが、男性の場合にも「上着とネクタイを着用しなければテニスをしてはならない」などと規制されていたらしく、ワーグマンは「何と高尚なことか!!!!」と皮肉を書き添えていました。

画像: 《THE JAPAN PUNCH(ジャパン・パンチ)》1876(明治9)年6月号に掲載されたワーグマンの絵「Lawn Tennis」。描かれた人物は、JWM紙の創始者W.G.ハウェル。ワーグマンは何度かローンテニスを描いているが、なぜかネットが高く、高さを支える棒が多い。出典◎『the Japan Punch(復刻版)』(1975年刊、雄松堂)

《THE JAPAN PUNCH(ジャパン・パンチ)》1876(明治9)年6月号に掲載されたワーグマンの絵「Lawn Tennis」。描かれた人物は、JWM紙の創始者W.G.ハウェル。ワーグマンは何度かローンテニスを描いているが、なぜかネットが高く、高さを支える棒が多い。出典◎『the Japan Punch(復刻版)』(1975年刊、雄松堂)

 故郷を遠く離れた東洋の一角、横浜外国人居留地に住む女性たちにとって、クロッケーやローンテニスの集まりは大切な気分転換の場でした。彼女たちは1878(明治11)年に「Ladies’ Lawn Tennis and Croquet Club」(現、Yokohama International Tennis Community)を正式に結成しています。日本最初のテニスクラブは、イギリスで第1回ウインブルドン大会が開催された年の、早くも翌年に発足していたのです。

 一方、彼我公園でのローンテニスも継続していました。JWM紙の1886(明治19)年3月27日号に掲載されている「Yokohama Cricket and Athletic Club」(YC & AC。現、Yokohama Country and Athletic Club)の年次総会を伝える記事には支出内容にローンテニス項目があり、ネットやボールをLane, Crawford & Co.(レン・クロフォード商会)から購入したと記録されています。YC & ACは彼我公園のクリケット場を管理しているクラブで、レン・クロフォード商会は横浜居留地随一の百貨店を営業するイギリス系総合商社でした。

 JWM紙の1890(明治23)年3月1日号には、「The Ladies’ Lawn Tennis Club」と「Yokohama Cricket and Athletic Club」、それぞれの年次総会記事が並んで掲載されています。YC & ACの活動内容としてはクリケット、運動会(陸上競技会)、フットボール、ベースボール、ローンテニス、そしてグラウンドの管理に分けてありました。

 ローンテニスは、明治前期の横浜にしっかりと定着していたようです。

【今回のおもな参考文献】※原本の発行順
・内務省地理局測量課製作『横濱実測図』(1883年発行、[内務省]地理局)※『明治・大正日本都市地図集成』(1986年刊、柏書房)に複製版収録あり
・渡辺融「明治期の横浜における外国人スポーツ・クラブの活動と日本のスポーツ」(《体育学紀要》第10号、1976年3月刊、所収)
・山本邦夫・棚田真輔『横浜スポーツ草創史』(1977年刊、道和書院)
・鳴海正泰『テニス明治誌』(1980年刊、中公新書)と『横浜山手公園物語』(2004年刊、有隣新書)
・横浜開港資料館/(財)横浜開港資料普及会・編『図説 横浜外国人居留地』(1998年刊、有隣堂)※その他、横浜開港資料館の発行物諸々
・YITC130年のあゆみ編集委員会・編『横浜インターナショナル・テニス・コミュニティ 130年のあゆみ』(2008年刊、社団法人横浜インターナショナル・テニス・コミュニティ)
・横浜公園の日本大通り側口に設置されている説明板「横浜公園の歴史」5枚シリーズ(横浜都市発展記念館・監修、横浜市環境創造局が2011年に設置か)

=ちょっと寄り道=

 明治10年前後の東京でのローンテニスについては、米国人少女クララ・ホイットニーの日記(『クララの明治日記』上巻と下巻、1996年刊、中公文庫)で垣間見ることができます。東京や横浜の友人宅でクララたちが楽しんでいたローンテニスは、簡易型であったようです。

 神戸の外国人居留地でも早くからローンテニスが行われていたようですが、まだ原史料での確認はできていません。

 長崎外国人居留地に関しては、「イギリス人フレデリック・リンガーが、グラバー邸のそばに日本最古のテニスコートをつくり、友人たちを集めて楽しんでいた」という伝聞があります。

 ですから、『一億人の昭和史 第13巻』(1977年刊、毎日新聞社)の第180ページに掲載されていた「グラバー邸での在留外人のテニス(10年代末)」という写真(下記)を見つけたときは「発掘!」と胸躍らせましたが、調べてみるとこの写真は「日本最古のテニスコート」ではなく、1895(明治28)年頃に雲仙で撮られたものでした。

画像: 中央の帽子をかぶった男性がF.リンガー、左端の黒服がT.グラバー。背後に「LLTC(Ladies Lawn Tennis Club)」と、「NC(Nagasaki Club)」のものらしき旗が掲げられている。出典◎『一億人の昭和史 第13巻』

中央の帽子をかぶった男性がF.リンガー、左端の黒服がT.グラバー。背後に「LLTC(Ladies Lawn Tennis Club)」と、「NC(Nagasaki Club)」のものらしき旗が掲げられている。出典◎『一億人の昭和史 第13巻』

 2015年に所用で長崎に旅したときにはグラバー園にも寄って、「日本最初のテニスコート」に使用されていたという石造りのローラーを見てきました。

 説明板には新たにプレー中の女性の絵が加えられていましたが、やはり根拠となる原史料は付されていません。

画像: 帽子とラケットの形から推測して1900年前後のローンテニス風景と思われるが、服装から推測するとプレーしている女性はアジア系に見える。◎写真は2015年4月に筆者撮影

帽子とラケットの形から推測して1900年前後のローンテニス風景と思われるが、服装から推測するとプレーしている女性はアジア系に見える。◎写真は2015年4月に筆者撮影

 なるべく早い機会に長崎を再訪して、長崎の初期ローンテニスとプレー中の女性の絵について調べてみることを楽しみにしています。

This article is a sponsored article by
''.