古今東西テニス史探訪(7)「運動」の定着、「庭球」の成長

明治20年代に中等学校以上の各校に浸透した「運動」(スポーツ)は、その後に外部の学校やクラブとの対抗戦を行うことによって相互のつながりができるようになりました。今回は、中でも「ローンテニス」が「庭球」とも呼ばれるようになり、対校試合も行われるようになって日本独自の成長を始める時期を探訪してみました。

総合スポーツ誌《運動界》の発行

 1896(明治29)年3月、高等師範学校(高師。現、筑波大学)でも「運動会」を組織し、柔道部、撃剣及ビ銃槍部、弓技部、器械体操部、ローンテニス部、フートボール部、ベースボール部、自転車部の8部に分けて活動することになります。当時の高師の所在地は御茶ノ水(現在の文京区湯島1丁目)で、本郷や神田の諸学校と近い距離にありました。

 同年5月には第一高等学校(一高)野球部が横浜の外人チームに大勝した記事が、一般紙の《日本》や《読売新聞》に掲載されたりして、学生および社会の「運動」(スポーツ)への関心は高まりつつありました。

 こうした中、1897(明治30)年7月には、帝国大学・第一高等学校(現、東京大学)の「運動家」たちが編集の中心になって、総合スポーツ誌《運動界》(英文誌名:The Athletic World)が発行されることになります。第1回近代オリンピックがアテネで開催された翌年のことです。

日本最初の本格的スポーツ誌《運動界》創刊号の表紙。描かれているベースボール(野球)の絵の選手は素手でプレイしている。出典◎《運動界》(詳細は文末の文献リスト、以下同じく)※筑波大学附属図書館所蔵


 創刊号巻頭に掲げられた「『運動界』発行の趣意」には、同誌発行の目的は体育を奨励し、〈勇壮活発なる運動遊戯を青年子弟の間に流行せしめ、以て当今の大患なる優柔惰弱の風を移つし、かくて我国将来の継続者をして、剛健なる国民たらしめんことを期する〉と書かれています。

 また次ページの「『運動界』は如何なる雑誌なりや」と題した記事によれば、項目として「野球 漕艇 競走 フットボール テンニス クリッケット 柔軟体操 器械躰操 水泳 狩猟 漁魚 行軍 柔道 撃剣 馬術 弓術 自転車術 旅行 探検 其他総て戸外の運動遊戯」を予定し、「運動社会」のできごとを詳細に報道するとしています。

 そして〈全国の高等学校、中学校、師範学校其他大小の諸学校に於ける運動家諸氏と聯絡を通じ、相扶け相輔ひて、斯道の普及進歩を図らんと欲し、切に諸氏が其地方に於ける運動社会の出来事に就きて、通信を寄せられんことを希望す〉と呼びかけていました。

 発行初年の附録には、前年に横浜外人チームを連破した一高野球チームの写真「向ヶ岡の十二勇」(創刊号)、イギリス留学中の法学士から寄せられたスポーツ見聞記に添えられた写真「英国二大学競漕」(第2号)、そして柔道の嘉納治五郎、体操の坪井玄道、野球の平岡煕の写真を配した「運動三大家の肖像」(第3号)が添えられています。

「運動三大家の肖像」。写真には「柔道大家嘉納治五郎氏」「躰操大家坪井玄道氏」「野球大家平岡煕氏」と付してある。出典◎《運動界》)※この附録部分は市立市川歴史博物館所蔵の接写コピー

 《運動界》の名誉賛助員には嘉納、平岡、坪井らを含む貴族、軍人、教育者など21名、特別賛助員にはイギリス、上海、米国、ドイツに在住するスポーツ理解者および一高野球部で活躍したメンバーなど19名、賛助員には小学校教諭など4名の名が挙げられています。そして本社社友として挙げられている11名が編集委員的立場であり、中でも中心を担ったのは編輯主任:山縣五十雄、主事:瀬木博尚、幹事:伊東卓夫、社員:瀬川延男、関根豊三郎、片岡齋助の6名でした。

 この中で筆者が注目しているのは、主事の瀬木博尚と幹事の伊東卓夫の存在です。瀬木は現在の博報堂の創業者で、当時は神田末広町で教育雑誌の広告取次店を営んでいて、創刊当時の運動界発行所は同社の住所に置かれています。

 伊東は、1890(明治23)年に第三回内国勧業博覧会で褒状を受けた「伊藤卓夫」と同一人物で、創刊当時は帝国大学赤門の道路を挟んだ向かい側(本郷区五丁目十番地)に店舗を構えています。運動界発行支社は美満津商店の住所に置かれ、その後、約3年の間に編集陣の顔ぶれは変わっても、支社の所在地と美満津商店の広告掲載は変わりませんでした。

 同誌は19世紀を迎えようとする明治期日本の体育・スポーツ活動を伝える記事の宝庫となっています。国内では北海道から九州までの学生・社会人のスポーツ、そして横浜や神戸の外国人居留地公園でのスポーツ、海外ではイギリスばかりでなく、米国、ドイツ、上海から、ローンテニスを含む現地スポーツ情報が寄せられていました。

 ローンテニスに関しても、《運動界》は貴重な情報を伝えています。その第一は、1898(明治31)年11月20日に挙行された「高等師範/高等商業庭球試合」の観戦記で、1899(明治32)年1月5日発行の第3巻第1号第28頁に掲載されています。高等商業とは神田一ツ橋に所在した高等商業学校(高商。現、一橋大学)で、早くから運動が盛んでした。

 投稿した「傍観生」はベースボールの試合はよく観ていたけれど、長らく待ち望んでいた「ろーんてにすまつち」がようやく挙行されることになったことを「心大いに喜」んでいます。この日初めて観戦したとのことですから、この試合が初の公開ローンテニス対校試合と考えてよいでしょう。

 各試合は〈千変万化各選手秘術を盡して勇戦奮闘せり其攻撃に妙を得たるその防御に巧みなる、其打球に熟練する、其身体運動敏捷なる傍観者をして覚えず拍手喝采せしめたり〉と進みます。試合は高等師範の勝利となりましたが、両校は試合後の茶話会で互いの健闘を讃え、対抗戦による親交の継続を誓ったとのことです。

 ローンテニスに関する貴重な情報の第二は、同じく第3巻第1号から始まった「論典子」執筆による「庭球(ロンテニス)」の9回にわたる連載です。日本の老若男女に向いている庭球を普及させたいと願う執筆者の口調は軽快で、当時の庭球の様子をよく伝えています。

 例えば、ラケットを「打球網」と訳して図で示し、〈東京では諸学校初め諸邸などにて之を試む者も少なくない〉のに、自分が旅先の海辺で置き忘れたらまだ庭球を知らない同宿の教師が魚または貝を捕る用具と間違えてラケットを海水に入れられてしまったというエピソードを添えています。

 具体的な説明は、イギリスのルールを参考にしつつも、「東京書生の庭球界に広く行はるる勝負法」によっています。ですから、当時の学生たちが失点(負点、失策)の数によって勝敗を決めていたことについても〈負たけありて勝のないのは可笑い様なれど、他の一方より見れば勝利である〉などと強引な説明をしています。

 どうやら失点で勝敗を決めることになった理由はすでにわからなくなっていたようですが、庭球は学校の10分休み、先生欠席による1時間休み、あるいは会社などの食後の休みなど限られた時間に負け側(失点を重ねた側)が抜けて交代する順序で行っていたそうですから、その影響もあったかもしれません。

 あるいは攻撃によって得点する場面よりも、失策で失点する場面のほうが多かったのでしょうか。いずれにしても、庭球界に影響をもつ学生たちの庭球が得点を数えるようになるのはかなり後のことでした。

 ローンテニスに関する《運動界》情報の第三は、美満津商店の33回分の広告です。イラストによるベースボール、フートボール(サッカー)、そしてローンテニスの用具によって一目瞭然、当時のスポーツの様子を知ることができます。

 ところが残念なことに、月刊《運動界》の発行は第1巻第1号(1897年:明治30年7月)から第4巻第3号(1900年:明治33年4月)までの33回で、何の予告もなく休刊したまま終了してしまいます。

ローンテニス専門書の発行

 《運動界》第3巻第7号(1899年7月発行)裏表紙の美満津商店の広告には「青井鉞男君著ローンテニス」発行の知らせが載せてありました。青井は、1896(明治29)年5月に横浜彼我公園で行われた初の内外人野球試合で横浜外人チームに勝利した一高野球チームの投手です。当時は帝国大学の分科である工科大学に進んでいました。

 《運動界》(第3巻第7号、1899年7月発行)の裏表紙に掲載された美満津商店の広告。中央に青井鉞男『ローンテニス』発行の案内が出ている。テニスボールには縫い目があるがカバーされたボールは高価で、実際に学生たちが使用していたのはカバーされていないゴムボールだった。フットボールは丸いので、サッカーが主流になっていたことがわかる。キャッチャースミットも、この頃には商品化されていた


 万能選手でもあった青井は、〈我国運動界の一助となり且つ小学児童或は奥様方お嬢様方の参考となる〉ことを期待して、「ローンテニス」を紹介しています。1899年9月に美満津商店より発行された全68ページの小型本は図入りで、簡にして要を得ています。

 ボール(用球)については、〈売店にてテニスボールと云へば三種あり上中並之なり上中等と称するは厚き「ゴム」球を薄き布にて蔽ひたるものなり並等と称するものは只だ厚き「ゴム」球にて布の蔽なきものなり而して上等と称するものは横浜などの外国商店にて販売する趣なり中並は美満津商店以外に舶来し居らさるが如し同店の販売するものは一タースに付き中等六円五十銭並等三円八十銭との由なり〉と説明しています。

 また青井書の巻末には美満津商店の商品広告が追録されているので、本文と巻末広告を合わせて、当時のテニスボールに関する記述を整理すると次のようになります。

・ローンテニス用ボールとしては、英国製の上等、中等、並等、および和製の小形、中形の5種類があった
・英国製の上等と中等のボールは、薄い布でカバーしてあった
・英国製の上等ボールは横浜外国人居留地などの商店でのみ取り扱っていた
・英国製の並等ボールはカバーされていない厚地のゴム製だった
・正式のボールは、直径約7.5センチ、重さ約56グラムだった
・通常に使用するボールは、どこの唐物店でも販売している中形(ゴム球)でよい

 青井の言う「何れの唐物店」とは、舶来品(欧米からの輸入品)を扱う文具雑貨店と理解してよいでしょう。西洋小間物店といわれることもありましたが、それらの店では文具雑貨としてのボールも販売していました。

 青井書については最後に、本文に挿入されたダブルスのプレイ図、著作の参考にしたと思われる原書のプレイ図、そして当時の帝国大学運動場でのプレイ写真を掲載しておきます。時代背景を立体的に把握するための参考にしてください。

青井書のゲーム図。「奥様方お嬢様方の参考」になるよう洋装の女性、和装の女性を配したミックス・ダブルスの図にしている

青井は参考書名を記していないが、1896年に刊行された『Cassell's Complete Book of Sports and Pastimes』も参考にしていたと推測できるミックス・ダブルス図。ただし青井はダブルス専用のコート図にしている。なお『Cassell's』の図は、連載第3回で挿入した『The Lawn Tennis Manual for 1885』のダブルス図に酷似している

青井書が出版された当時に、東京帝国大学運動場に設置されたコートでプレイする人々の写真。男性の袴姿が青井書やCassell書の女性の服装に見える。出典◎小川一真編『東京帝国大学』(1900年刊)


 青井書と同じ1899(明治32)年12月には、同じく工科大学学生の野田孝一による『庭球』が博文館の「内外遊戯全書 第六編」として発行されています。野田書では「魔球」(ボールに回転をつけて変化させる技術)についての詳しい解説がありましたが、ボールについての説明はありませんでした。

 翌1900(明治33)年3月には、「在高等師範学校」の高橋清一による『実験ローンテニス術』が発行されました。序言で高橋は、国家的競争の時代には国民の智力と体力が必要であり、その力を鍛えるためにローンテニスを紹介する述べています。

 本文中には、「坪井玄道先生から」聞いたこととして〈明治十一年にローンテニスを此学校に採用して以来、少しも衰ふることなく、常に盛況を以て今日に至れり〉との貴重な聞き書きもありました。

 高橋は、ローンテニスの種類としては、競技者が2人の場合、3人の場合、4人の場合の3種類があるとした上で、「欧州諸国及我国」では一般に4人の種類が行われているとしていました。どうやら高橋は、2人、3人で行うのは、人数不足の場合に限ると誤解していたようです。
        
 ちなみに英国では1874年の段階で「a single match」「a unicorn match」「a double match」という用例が見られます。しかし競技ゲームとしては2人で行うシングルスが、そして社交ゲームとしては4人で行うダブルスが主流でした。1877年に男子シングルスで始まったウインブルドン競技大会でも、女子シングルスと男子ダブルス種目が行われるようになったのは1884年以降です。

 高橋書は「四人にて行ふ方法」を中心に説明しています。コートを造る場所の実例として、寄宿舎のある学校では本校と寄宿舎の間などが適地とし、「参観者」の多い場所ならば励みになると書き添えていました。

 ネットの高さについては、海外では中央をたるませて3フィートにしているけれど、両端を強くして水平に張ることのできる〈吾々の流儀にては、全体一様に三尺の高さ〉と自慢しています。

 ラケットについては、小学校の生徒および高等女学校の生徒には和製の七号ラケット、中学校の生徒には六号より四号のラケット、それ以上の号は「高等なる学校の学生」に適しているとしています。

高橋書のラケット説明。材料はケヤキやムクノキなどがあるけれど、学生向きには一号、二号の少し重いが丈夫な白木のムクがよいと推奨しています

 ボールについては、正式のローンテニスでは市中で販売しているゴムマリとは別のボールを使っているとして、次のように説明していました。

・正式のボールは重く、堅いけれど、弾性が非常に大である
・大きさは一様ではないけれど、直径二インチ半より三インチ
・外人は必ずこのボールを使用して競技する
(筆者注:カバーの有無についての言及はありません)

 対して、「吾国にては」経済上の理由から普通のゴムマリを用いているとし、美満津商店の広告と同じ英国製の上等(1ダース:10円)、和製の小形(1ダース:2円40銭)、中形(1ダース:3円25銭)の価格に対して、普通のゴムマリはドイツ製(1ダース:1円60銭)と記載しています。

 高橋はまた、正式ボールと普通のゴムマリは重量、弾性に大きな違いがあるので、どちらかのボールに定めて練習するよう忠告しています。その上で、〈若し外人と勝負を行ふ場合あらば〉予めボールの種類を定めておいて、勝負の1、2週間前は、定められたボールでのみ練習すべきと書いています。外人と試合する機会もあったのでしょう。

 普通のゴムマリについても「大小硬柔等種々」あるけれど、東京のローンテニス向きのゴムマリを売っている店にダースで注文すれば品質の揃ったボールを購入できるとして、高師で購入している表神保町の商店を紹介していました。〈青森、山梨、等此技の盛んに行はるゝ所の学校は皆常にボールをこゝより取寄せると云ふ〉ということですから、すでに青森、山梨などでもドイツ製ゴムマリを使ったローンテニスが行われていたと推測できます。

 高師運動会の場合は運動会に属する団体全体の費用年額約340円のところ、ボール購入費用は約180円にも達していたそうです。ですから、費用節減のためには、消耗して空気が漏れ、跳ね上がりが悪くなった古ボールでも使うべきと我慢を促しています。

 なお、当時を回想した記録によって、明治30年代中頃には「青馬印」と呼ばれるドイツ製のボールが使われていたことがわかっています。つまり「濃い青みを帯びた黒馬、青毛の馬。また、淡青色や淡灰色の馬」印ということで調べてみたら、ドイツのゴム工業会社「Continental」(コンチネンタル社)が製造していたテニス専用ボールに黒い馬のイラストが使われていることがわかりました。

 ウィングフィールド少佐が使用した中空ゴムボールもドイツ製でしたが、コンチネンタル社との関係があったのか、あるいは日本の「青馬」との関係はあったのか、ドイツのテニス史家やコンチネンタル社に照会してみましたが確認できませんでした。

 また、米国の大手運動具店「A.G. Spalding & Bros.」社や「Wright & Ditson」社より発行された1902(明治35)年版のローンテニス・カタログにも、天候湿潤の日や練習用に使用するテニス用ゴムボールの広告が掲載されていました。1902(明治35)年当時、イギリスのローンテニス書ではゴムボール使用は避けるべきこととされていましたが、米国では適宜使っていたことになります。

 ところでポイントの計算法については、青井、野田と同様に、高橋も「外人の計算法は我国に行はるゝものとは別にして、各組の勝点を計算す」と記しています。つまり「外人」は各ポイントの得点を「0(love)、15(fifteen)、30(thirty)、40(forty)」と加えて数える加点方式ですが、「我国」では失点を「0(ゼロ)、1(ワン)、2(ツー)、3(スリー)」と数える減点方式と説明しているのです。

 さらに高橋ら学生たちは勝敗を決めるポイント数やゲーム数を短縮し、1面のコートを使って、「競技者」ばかりでなく「参観者」も身の入る白熱した対校団体戦を行う工夫をしています。例えば、春と秋に行われる高師と高商の定期戦の場合は10組(各20名)の対戦で、各試合は「五番勝負二組抜優退」で行われていました。

 つまり対抗戦はダブルスだけの団体戦で、各校を代表する10組が対戦し、各試合は「五番勝負」(3ゲーム先取)で、「二組抜優退」(2連勝すると一休み)して次の組の対戦となり、一周したら優退組が再登場するという繰り返しで、最後に勝ち組を残した側の勝利とする方式でした。この方式ならば短時間で勝敗が決するので「観客の体屈を感ぜぬ間に、愉快の勝負を終る」ことができたそうです。

 なお、1900(明治33)年には下田歌子による『女子遊嬉の栞』が家庭文庫の第11編として博文館から発行されています。1893(明治26)年から約2年間、主として英国など欧米に留学にした下田は、帰国後も華族女学校(現、学習院女子中・高等科、学習院女子大学)学監および帝国婦人協会長として女子教育に尽力し、文筆活動などでも多才ぶりを発揮していました。

「ローン、テニス(庭毬)」の項では、ボールの種類を正式と通常に分けて説明していますが、ポイントの計算方法は得点を数える加点方式のみを説明しています。女学生たちは優雅に常道のローンテニスを楽しんでいたようです。

 ローンテニスの紹介書が続けて発行された1899年(明治32)年には外国人の居住地制限が解かれて内地雑居が始まり、運動(ゲーム、スポーツ)も広く日本社会に浸透していきます。

 一方、カバーされたローンテニス専用ボールを使ってプレイしていたグループもありました。軽井沢などの外国人が拓いた避暑地では、外国人たちに混じって日本人の若者たちもプレイしていたそうです。

 また、鹿鳴館をクラブハウスとして使用していた東京倶楽部(内外人社交クラブ)のメンバーや、樺山愛輔ら留学帰国者たちのグループは、イギリス公使館や鹿鳴館などの敷地でプレイしています。彼らは1900(明治33)年頃に永田町に専用コートを設け、東京ローンテニス倶楽部を発足させています。

 1900(明治33)年は米国と英国の間で国別対抗戦(現在の通称はデビスカップ戦)が始まった年ですが、まだ周知はされていませんでした。


【今回のおもな参考文献】※原本の発行順
◎明治大正期の文献の多くはインターネットで公開されています。
・『Cassell's Complete Book of Sports and Pastimes』 new and rivised edition(1896年刊、Cassell & Co.)
・《運動界》(1巻1号~4巻3号、1897:明治30年7月~1900:明治33年4月)※複製版(1986年刊、大空社)
・論典子「庭球(一)~(九)」(《運動界》第3巻第1号~第4巻第1号、所収)
・青井鉞男『ローンテニス』(1899年9月刊、美満津商店)
・野田孝一(野田圭園)『庭球』(1899年12月刊、博文館)
・高橋清一『実験ローンテニス術』(1900年3月刊、金昌堂)
・下田歌子『女子遊嬉の栞』(1900年11月刊、博文館)
・『東京高等師範学校沿革略志』(1911年刊、東京高等師範学校)
・『TLTC 100年の歩み-One Hundred Years of Tokyo Lawn Tennis Club-』(2001年3月刊、東京ローンテニスクラブ)
・『軽井澤會テニス部 100年の歩み』(2016年12月刊、軽井沢会)

=ちょっと寄り道=

 20世紀最後の年となる2000(平成12)年秋に、「拾九世紀最終乃日寫之-100年前の明治テニス写真-」と題した記事と写真を《テニスジャーナル》誌(2000年12月号、88-89ページ)に掲載することができました。

 1900(明治33)年12月31日に撮られたというその写真には、ネットの後に立つ坪井玄道、中央に腰掛けている「吉田先生」、そして左右にラケットを手にした女子高等師範学校(女高師、お茶の水女子大学)の生徒4名が写っています。撮影された場所は、明らかに写真館内部です。そして写真館の名前が印刷されている裏面には、人物名と「快絶」「拾九世紀最終乃日寫之」と筆書きされていました。(「吉」は「土」の下に「口」)

「拾九世紀最終乃日寫之」写真の表と裏。ネット、ラケット、ボールなどローンテニスに関する記録資料としても貴重。この日、この時、この配置で写真を撮ることにした発案者に感謝したい。※市立市川歴史博物館所蔵

 その時は「吉田先生」について詳しいことを知ることができず気になっていたのですが、このほど改めてネット検索したところ、【蔵書目録】さんのブログ(https://blog.goo.ne.jp/1971913)の中の『楽のかゞみ』ページに収録されている「吉田信太」先生の写真を見つけることができました。写真は広島高等師範学校教授時代の写真です。

 やはりネット検索を手がかりにして見つけた参考書籍『日本の作曲家-近現代音楽人名事典-』を閲覧したところ、吉田先生は国民唱歌「港」(空も港も 夜ははれて 月に数ます 船のかげ♪)の作曲者でした。「方舞」(スクウェアダンス、フォークダンス)も作曲しているそうです。

 1900(明治33)年はまた、三田土ゴム製造合名会社(現、昭和ゴム株式会社)が「東京女高師教授坪井玄道氏の指導で軟式テニスボール赤M」を完成した年でもあります(参考:『昭和ゴム30年小史』1969年刊)。吉田先生が手にしているボールは、そのボールでしょうか。

 なお、坪井は1901-2(明治34-35)年に欧米を視察(留学)し、ピンポンのセットやサッカーの参考書を持ち帰っています。帰国後は、『ダンシング(方舞)』など舞踏に関する手引き書などを著しました。

 明治初期から大正期まで、学校や社会への近代スポーツ導入に尽力した坪井玄道は、1922(大正11)年11月に亡くなりました。このとき岸清一は「先生は実にスポーツマンの好典型にして、又我国の国宝なり」と追悼しています。岸はF.W.ストレンジの教え子で、当時は大日本体育協会二代目会長(現、日本スポーツ協会)でした。

 現在、坪井玄道の事績は郷里の千葉県市川市の市川歴史博物館「郷土と人」コーナーで紹介されています。坪井は2006年に日本サッカー殿堂に掲額されました。

 坪井が伝えた近代スポーツのキーワードは、「遊戯」「運動」「健康」であったと思われます。この3点は、複雑な要素が絡まっているように見える現代スポーツにも共通する原点ではないでしょうか。玄道さん、ありがとう。


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