彼女が浜松オープンに出るのは、まだ17歳だった2015年以来のこと。その頃に比べると、身体が一回りも二回りもたくましくなったのは、誰の目にも明らかだった。

 そのような印象を本人に伝えると、彼女は破顔一笑、「うれしいです!」と声をはずませる。「大学に行った理由は、フィジカルを強くすること」だったという柴原瑛菜にとり、身体が大きくなったというのは、何にも勝る褒め言葉のようだ。

 両親ともに日本人ながら南カリフォルニアに生まれ育った柴原は、父親や二人の兄とともに地元のクラブでテニスを始め、8歳の頃には、全米テニス協会(USTA)のジュニア強化選手に選ばれる。なおその当時の柴原のコーチは、キンバリー・ポー(アメリカ)。シングルスの自己最高世界ランキングは14位、ダブルスでは6位を誇る、ロサンゼルス出身の名プレーヤーである。

 13歳まで指導を受けたこのポーに代表されるように、彼女のキャリアには、南カリフォルニアという土地が常に大きな影響を与えてきた。最初に憧れ「ロールモデル(お手本)」とした選手は、同郷の英雄であるピート・サンプラス(アメリカ)。そして18歳のとき、USオープン・ジュニアのダブルス優勝を手土産に、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に奨学生として進学する。そのUCLAテニス部のコーチはくしくも、サンプラスの姉の、ステラ・サンプラスだった。

 サンプラスの姉の指導を受け、1984年ロサンゼルス五輪の会場でもあるUCLAの施設でトレーニングを積んできた柴原は、サーブ&ボレーやドロップショットなど豊富な手札を誇る、オールラウンドかつ攻撃的なプレーヤーへと育つ。1年生のときから単複でエース級の活躍をし、同時に一般の大会でプロ選手との実戦経験も積んできた。そうして、ITF6万ドル2大会でダブルス優勝も果たした今、彼女は大学を一時休学し、プロ転向を考えているという。大学進学から2年経ち、機は熟したとの思いを強くしたたのだろう。

 プロになったら、その先の目標は?

 その問いに彼女は、「いっぱいあって!」と笑みを広げる。

 まずは多くの試合に勝っていきたい。東京オリンピックにも出たい。

 そして最終的に目指す地点は、憧れのピート・サンプラスが至った「世界で一番」の場所――。

 予選を3つ勝ち、本戦への切符を勝ち取った浜松オープンは、その地点を目指す壮大で長い旅路への一歩となる。

レポート◎内田暁(大会オフィシャルライター)

※写真は柴原瑛菜
写真提供◎浜松ウイメンズオープン実行委員会
撮影◎てらおよしのぶ

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