東京の四大校によって統一された「ゴムボール使用の庭球ルール」は、西へ東へ学生たちの遠征によって各地に伝えられました。1908(明治41)年には大阪の浜寺公園で、新聞社が主催する中等学校大会(現、全国高等学校テニス選手権大会)が開かれます。

総合スポーツ誌《運動世界》の発行

 1908(明治41)年4月に創刊された《運動世界》では、早稲田大学野球部長の安部磯雄を編集主幹とし、実際には大学運動部OBや関係者たちが編集・執筆しています。途中休刊を挟みながらも、1914(大正3)年5月発行の第56号まで刊行されました。

 米国留学中の1890(明治27)年頃よりローンテニスを始めていた安部は、庭球部や野球部の学生たちとテニスを楽しむ教員であり、人格を陶冶し、国際交流を可能にするスポーツの可能性を信じていました。野球部員たちに「(強豪)一高、慶應、学習院に勝ったらアメリカに連れて行く」と約束していた安部は、日露戦争中の1905(明治38)年、大学当局を説得して野球部の米国遠征を実行しています。

 帰国後の野球部員は最新ベースボール事情や技術を日本に持ち帰って注目を集めましたが、翌年11月の早慶戦では応援が過熱し、1勝1敗後の第3戦が中止となります。その余波もあって、1907(明治40)年以降は庭球の早慶戦も中止になりました。《運動世界》発刊には、早慶戦復活の願いも込められています。

 《運動世界》発刊の辞で安部は、体育の理想は身体のみならず知力および道念の「プロパーション(釣合)」であって、男子のみならず女子にとっても生涯にわたる運動が必要と説いています。

画像: 《運動世界》1908(明治41)年4月創刊号の表紙。編集陣は早稲田大学系が中心だが、各方面から寄せられた情報を掲載している。※国会図書館蔵

《運動世界》1908(明治41)年4月創刊号の表紙。編集陣は早稲田大学系が中心だが、各方面から寄せられた情報を掲載している。※国会図書館蔵

 編集陣は早稲田系が中心でしたが、慶應系など他校執筆者の協力もあり、対象種目は多岐にわたっています。読者からの投稿も全国各地から寄せられていました。明治も40年代になると産業が発達し、鉄道網が広がるとともに情報の伝達や物資の流通が早くなっていたことがわかります。

 東京発の情報を発信する《運動世界》には最新運動具の解説記事や運動具店の広告も多く、さらには代理部を設けて運動具の代理購買を請け負ったりもしています。代理部の広告によれば、運動器具の名称などを指定して申し込めば、確かな選択をできる運動世界社の「社員及社友」が代行して各商店の定価の5分引きで購入できるとのことでした。

画像: 《運動世界》1908(明治41)年10月号に掲載されていた松下御影堂の広告。和製ラケットも製造していたという

《運動世界》1908(明治41)年10月号に掲載されていた松下御影堂の広告。和製ラケットも製造していたという

 運動世界社はまた、1909(明治42)年4月に早稲田大学庭球部編『最新庭球術』を発行しています。四大校の中で頭角を現していた早稲田大学庭球部は、2年前の1907(明治40)年に『ローンテニス』を発行して陣形の変遷などを説明していましたが、『最新庭球術』では「日本の風土及日本人の体質を基礎」とした、いうならば日本式庭球の時代である強調しています。

 内容は「庭球の概略」「後衛」「前衛」「連絡、策戦、及練習法」「規則」「審判及記録」、そして「口絵写真」に分けて分担・協力し、出版を含めた総責任者を水谷武としています。水谷は早稲田庭球部創設者の一人で、審判やマネージメント面に才能を発揮していました。

 使用ボールの説明では、「球には二種ある一は現今我國で多く使用するゴム球で、一は外国で用ひられて居る外面はフランネルで包んだレギユレーシヨン球であるが、之れは現今我國では使用して居らぬから此処にはゴム球の方のみを説こう」としています。

 購入するときには、柔らかで弾力があり、表面は均等の円形で、目方は九匁(約35グラム)内外がよいとし、「目下東京などで使用しているのは赤でMの字が記してある物」と書き添えてありました。これにより、国産の三田土ゴム製造ボールがかなり普及していたことがわかります。

 ゲームの章では「競技者ノ数ハ常ニ一組二人トシ而シテ如何ナル場合ト雖二人以上又ハ以下ガ競技ニ加ハルコトヲ得ズ」として2人1組のダブルスを前提とし、「サーヴハ其ノ組ノ中何レノ者ガ為スモ随意ナレドモ一ゲーム中ニ於テハ交代スルヲ得ズ」としています。

 つまり、ゲームの途中で交代してはいけないが、組のどちらかの競技者が連続してサーブしてもよいと解釈できる条項です。この時期、前衛後衛陣が主流になるにつれて、後衛だけがサーブする戦術が容認されていたことがうかがわれます。

 ポイントの数え方については「計算ハサーヴ側ノ失点ヨリ数へ初ム」とし、「仕合」については団体戦を前提にして「一セット(五回ゲーム)」の説明をしています。

運動記者倶楽部の発足

 この頃、日露戦争で購読者を増やした新聞の場合はさらなる販路拡大のため、紙面の充実をはかっていました。1906(明治39)年10月2日には、新活字を使用し、紙面を七段から八段制とした読売新聞が、「運動界」欄を三面に新設しています。

 1909(明治42)年の《運動世界》(第12号:3月号)には「東京運動記者倶楽部員」の写真が掲載されています。また、翌年1月の第20号には、新年挨拶ページに東京運動記者倶楽部として「萬朝報:泉澤公濟、二六新報:林金之助、東京毎日:針重敬喜、東京朝日:戸谷太郎、中央新聞:太田茂、冒険世界:押川方存、やまと:加藤進、国民新聞:吉川泰、時事新報:多和田一也、毎日電報:福知新次、報知新聞:後藤又男、日本新聞:小崎務、読売新聞:小泉三郎、東京日日:菊地秋四郎、運動世界:水谷武、東京朝日:美土路昌一、中外商業:清水濱三郎、都新聞:白井俊一」、運動世界編輯部として「安部磯雄、水谷武、針重敬喜、町田藤太郎、鈴木堅三郎、飛田忠順、小泉三郎」の名が掲載されていました。

画像: 《運動世界》(第12号:3月号に掲載された運動記者の写真。「加藤(やまと)、林(二六)、小泉(日々)、多和田(時事)、太田(中央)、水谷(運動世界)、戸谷(朝日)、吉川(国民)、泉澤(萬朝)」が並んでいる

《運動世界》(第12号:3月号に掲載された運動記者の写真。「加藤(やまと)、林(二六)、小泉(日々)、多和田(時事)、太田(中央)、水谷(運動世界)、戸谷(朝日)、吉川(国民)、泉澤(萬朝)」が並んでいる

 今やスポーツの面白みを理解するようになった一般社会層の期待と、運動記者倶楽部の成立によって、これまでは「雑報」記事の扱いだったスポーツ記事が、社会面の一画を占めるようになっていきました。

 その一方、一部の野球試合で激しくなった対校意識や過度の運動がもたらす弊害に対する批判も生まれ、1911(明治44)年には、東京朝日新聞紙上に「野球と其害毒」と題した記事が連載されるようになりました。野球が大好きな小説家・押川春浪らが結成した天狗倶楽部や、安部磯雄ら《運動世界》関係者が野球擁護の論陣を張っています。 

関西でも盛んになる

 神戸、大阪(川口)にも外国人居留地があって、特に神戸はスポーツが盛んでした。京都の同志社でも早くからローンテニスが行われています。しかし、庭球と訳されたゴム球使用のテニスが盛んになるのは明治30年代後半になってからでした。

 1902(明治35)年の東京高師庭球部の関西遠征、翌年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会でのテニス用具、コンクリートコートの披露、そして慶應義塾庭球部の来阪なども刺激になって、第三高等学校(三高。現、京都大学)、第四高等学校(四高。現、金沢大学)、第六高等学校(六高。現、岡山大学)など高等学校同士の対抗戦や各校庭球部が開催する聯合大会が活発になります。

 1905(明治38)年には、京都帝国大学と東京帝国大学の定期戦、翌年には神戸高等商業学校(神戸高商。現、神戸大学)と東京高商の定期戦など東西対抗も始まっています。

 大阪毎日新聞に「早大庭球部の来阪」という予告記事が掲載されたのは、1906(明治39)年12月13日でした。19日の記事には早稲田大学庭球部選手一同の写真が第1面に置かれ、19日から大阪、京都で各校と対戦し、1月4日には中の嶋公園(現、中之島公園)で行われる聯合庭球大会に出場して帰京の予定と発表されています。

 大阪毎日新聞が主催する聯合庭球大会の案内記事には、賛同学校17校(うち4校は女学校)、賛同団体2クラブ、そして嘱託委員14名の名前が記されています。賛同団体や嘱託委員の中には、東京の四大校出身OBの名前も含まれていました。

 ちなみに、賛同学校は「大阪高等商業学校、大阪高等工業学校、大阪高等医学校、大阪師範学校、天王寺中学校、明星商業学校、大阪商業学校、桃山中学校、大阪府農学校、成器商業学校、浄土宗中学校、北野中学校、市岡中学校、大阪女子師範学校、堂嶋高等女学校、清水谷高等女学校、嶋の内高等女学校」、そして賛同団体として「オールドボーイス城南倶楽部、オールドボーイス北星会」が記載されています。

画像: 大阪毎日新聞1906(明治39)年12月23日号に掲載された聯合庭球大会の案内記事。ほとんどが教員となっている嘱託委員の中に、三井物産勤務の大塚千代造の名がみえる。大塚は慶應義塾大学庭球部の創始メンバーだった

大阪毎日新聞1906(明治39)年12月23日号に掲載された聯合庭球大会の案内記事。ほとんどが教員となっている嘱託委員の中に、三井物産勤務の大塚千代造の名がみえる。大塚は慶應義塾大学庭球部の創始メンバーだった

 大会前日となる1月3日の記事には、寄贈された賞品が列記されています。中にはラケットがあり、「トンボ印ラケツト」「上製ラケツト」が清水天眞堂、そして「鹿印ラケツト」が吉岡寶文館と中村商店から寄贈されていました。鹿印ラケットは福島県会津でも販売されていましたが、東京の運動具店広告では見かけていません。関西圏独自の製造・販売網が形成されていたようすがうかがわれます。水野兄弟商会(現、ミズノ)が大阪市北区で運動用ウエアの製造を開始したのも、1906年(明治39年)4月でした。

 東京の「四大雄鎮」の中で全勝していた早稲田庭球部は、事実上の日本一といえます。関西でも圧倒的な強さを見せて評判を高めていました。4日当日、会場の周囲には大阪毎日新聞社の社旗がひるがえり、新設されたコートの北側には本部・来賓席が設けられ、男子席と女子席に分けられた観覧席は満員となります。

 競技方法は、7組対戦対校マッチの場合は「七回ゲーム二組抜優退法」(4ゲーム先取。2連勝で交代)、その他は「五回ゲーム一組分かれ」(3ゲーム先取で双方1勝負のみ)とし、「点数の呼方はサーヴの失点より数う」としています。

 午前8時、狼煙の轟音を合図に、まずは中学生同士の対戦のあと、9時40分から大阪代表の「聯合隊」対「早稲田軍」の「マッチ」が始まりました。早大後援隊約30人の組織的な応援に対して、聯合側の声援も高まります。聯合隊はなかなかゲームを取れませんでしたが、声援は「青春の血を湧かして熱狂」し、「公園全部寸隙を余さず」に集まっていた運動好き男女の拍手喝采で湧きました。

 30分の休憩後、午後の部では、まずはじめに堂嶋高等女学校(現、大阪府立大手前高校)の公開試合が行われました。当初に予定されていた女学校4校のうち3校が揃わず、堂嶋高等女学校の6組による3試合の対戦となったようです。

「女生の競技」という見出しには、次のような感想がそえられていました。

〈女生はいずれも十五六の少女雄々しくも海老茶袴の甲斐々々しくラケツトを打振り一進一退作法正しく天晴の手並を見せしは満場の嘆賞に値ひし傍観せる早大選手すら屡々感嘆し居たりあはれ兎もすれば優柔に傾ける女性(原文ママ)の習癖を破りて万人環視の間にその練技を示したり彼女等の殊勝にもあるかな〉

 堂嶋高等女学校では男女の教師たちも盛んに庭球を楽しんでいたということですから、生徒たちも男子が主役の公開の場でプレイする勇気が出たのでしょう。

 大会は続いて大阪勢同士による5試合のあと、早稲田選手同士の模範2試合が行われ、3時30分に終わりました。

 こうして関西の庭球は技術的に改良され、ルールも東京に倣って統一されました。大阪毎日新聞は大阪の勇3校(大阪高等商業学校、大阪高等工業学校、大阪高等医学校)による大阪三専門学校庭球試合に優勝旗を贈り、庭球人気を後押しするようになります。1910(明治43)年頃には、関東より関西のほうが強くなったとも言われるほどでした。

 また1908(明治41)年には、大阪毎日新聞が、関西の雄・三高の勝田永吉に相談し、浜寺の海水浴場に集客するための主催大会を企画しました。こうして生まれた「関西諸学校聯合庭球大会」は「浜寺」「中モズ」と愛称される「全国中等学校庭球大会」(現、全国高等学校テニス選手権大会)へと大きく育っていきました。 

【今回のおもな参考文献】※原本の発行順

・早稲田大学庭球部・編『ローンテニス』(1907年6月刊、彩雲閣)
・《運動世界》(第1号:1908年4月~第48号:1912年5月、〈再刊〉第49号:1913年3月~第56号:1914年5月)※参考:伊東明、阿部馨「運動世界ー記事索引目録ー」(1961年、非売品)
・早稲田大学庭球部・編『最新庭球術』(1909年4月刊、運動世界社)
・針重敬喜『日本のテニス』(1931年11月刊、目黒書店)
・『読売新聞百年史』(1976年刊、読売新聞社)
・岸野雄三、大場一義、成田十次郎、稲垣正浩・編『新版 近代体育スポーツ年表』(1986年4月刊、※三訂版 1999年4月刊)

=ちょっと寄り道=

 1909(明治42)年、京浜電車経営の羽田運動場が開設されると、早稲田出身のSF冒険小説家・押川春浪ら運動好きが羽田運動場に集まって野球をすることになりました。それがきっかけで、スポーツ社交グループ・天狗倶楽部の活動が始まったということです。

 グループのメンバーは早稲田など大学運動部のOBや、文士、画家、会社員、新聞記者など多士済々でした。スポーツも、野球、テニス、相撲、柔道、陸上競技、ボート競技などさまざまで、経験者も未経験者もまぜこぜで愉快に楽しんでいます。

 天狗倶楽部の中には画家・小杉未醒、倉田白羊らがいて、田端の高台に家を借りて将棋やビリヤードを楽しんでいましたが、やがて何か運動もしようという話になり、1911(明治44)年4月から7月の頃、麦畑だった借地を足で踏み固めてテニスを始めたということです。敷地の垣根には、会員の一人が故郷小豆島から送らせたポプラの苗を植えたことからポプラ倶楽部という名前になりました。

画像: 〇印は、田端時代のポプラ倶楽部所在地。地図は1941(昭和16)年当時。新しい拡張道路ができて、1911(明治44)年の発足当時とはようすが変わっている

〇印は、田端時代のポプラ倶楽部所在地。地図は1941(昭和16)年当時。新しい拡張道路ができて、1911(明治44)年の発足当時とはようすが変わっている

 美術学校で選手経験のある彫塑家の藤井浩祐、そして小杉未醒を筆頭にして、満谷国四郎、吉田博、中川八郎、長尾杢太郎、倉田白羊、山本鼎など美術家たちが毎日のように打ち合い、手入れもし、麦畑の畝の痕も消えた頃、対外試合をするようになりました。しかし、完敗してしまいます。そこで天狗倶楽部のメンバーからテニス経験のある弓館芳夫(小鰐)、針重敬喜らを誘って補強しました。

 特に新聞記者の弓館、雑誌編集者の針重、そして画家の小杉(のちの放庵、放菴)の三人は、大正、昭和を通してスポーツ界、テニス界を支える活動をしています。

 針重が1925(大正14)年に創刊した《ローンテニス》誌には、一貫して弓館、小杉らが寄稿し、協力しています。関東大震災で失われかけた日本テニス史の記録を集め、1931(昭和6)年に針重が出版した『日本のテニス』扉絵にも、小杉が軽妙なテニス画を寄せていました。

画像: 1931(昭和6)年に発行された針重敬喜の労作『日本のテニス』に小杉が寄せた扉絵。軽妙洒脱なテニス画にポプラ倶楽部の雰囲気が感じられる

1931(昭和6)年に発行された針重敬喜の労作『日本のテニス』に小杉が寄せた扉絵。軽妙洒脱なテニス画にポプラ倶楽部の雰囲気が感じられる

 多彩なメンバーの親睦とともに、ジュニアトーナメントを主催するなど多くの役割を果たしたポプラ倶楽部の田端時代のコートは、多くの史資料とともに1945(昭和20)年の空襲で失われました。

 現在、ポプラ倶楽部の地は田端保育園となり、名前は「ポプラ坂」という地名として残っています。

 と、ここまで書いたところで、来る2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリンピック噺』に天狗倶楽部のメンバーも登場することを知りました。楽しみですね。

※ポプラ倶楽部についての参考文献:『テニスの人々(針重敬喜遺稿集)』(1968年刊、私家版)、小文「ポプラ倶楽部ー大正期テニスの人々」(《テニスジャーナル》誌2000年3月号に掲載)、「元祖テニスジャーナリスト・針重敬喜さん」(《テニスジャーナル》誌2010年6・7月号に掲載)

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