古今東西テニス史探訪(10)国際ルール採用『日本庭球協会』発足

日本で普及した「ゴムボール(軟球)使用の庭球」から、国際ルール規格の「レギュレーションボール(硬球)使用のテニス」へ脱皮したのは、大正の初めでした。やがて「デヴィス・カップ争覇戦」参加のため、『日本庭球協会』が設立されます。今回は日本テニス国際化への道を探訪します。

マニラでの東洋選手権大会に参加

 第5回オリンピック・ストックホルム大会参加のため、前年の1911(明治44)年7月に大日本体育協会(のちの日本体育協会、現在の日本スポーツ協会)が創立され、11月に陸上競技の予選会が羽田運動場で行われました。

 翌年2月には、米国の統治領になっていたフィリピンのマニラで、カーニバル祭期間中に開催される東洋選手権大会(Championship of the Orient)テニス種目に東京ローンテニス倶楽部の朝吹常吉と山崎健之亟、そして横浜在住の米国人T. S.チャップマンが参加します。

1912年にマニラで行われた東洋選手権大会に参加した朝吹常吉(前列の右から2人目)と山崎健之亟(前列の左から2人目)。日本人テニス選手としては初の海外遠征。出典◎朝吹登水子・編『ある家族の肖像』p.60掲載

 優勝したC. R. ガードナー(Carlton R. Gardner、1910年米国ランキング10位)は、帰途の船中で親しくなった朝吹、山崎の誘いを受けて横浜で下船し、東京と横浜でテニスをしたり、慶應義塾庭球部の練習を見たりして、その見聞記をAmerican Lawn Tennis誌に寄稿しています。同誌の主幹S. W.メリヒュー(Stephen W. Merrihew)は視野が広く、各国の読者との交流を大切にする編集者でした。

 1912(明治45)年4月15日号に掲載された「Tales of a Traveller in the Land of the Mikado」によれば、横浜で下船したガードナーは汽車で東京に向かっています。プレイした永田町(現、国会議事堂)の東京ローンテニス倶楽部の敷地はゆったりとしていて土のコートが6面あったそうです。

 横浜のLadies’ Club(現、横浜インターナショナルテニスコミュニティ)でも在住外国人トッププレーヤーたちとプレイしています。女性たちが運営しているクラブには6面の土のコートのほかに、5月頃から使用できる芝のコートもありました。

 ガードナーが聞いたところでは、「これまでは選手権は開かれていないが、うまくいけば年内に東京・横浜地域での選手権を開催し、やがては神戸、京都などで増えつつあるプレーヤーも参加する全日本選手権を計画している」とのことでした。

「日本の大学、とくに慶應や早稲田でもテニスが盛んだが、残念なことにイギリスや米国とはまったく違うボールを使っているので、まったく違うゲームになっている」とも書いています。日本のボールの特長を挙げ、これではよっぽど強く打たないとベースラインまで届かないし、不自然に曲がってコントロールできないと見抜いています。

 ガードナーは、朝吹や山崎の母校でもある慶應のコートで4人の代表選手による模範試合も見ました。そして、コートがダブルス専用でネットは高く水平に張ってあり、シングルスを想定していない日本式庭球ルールで、試合時間は約20分などと観察しています。

 その上で使用ボールに言及し、ゴム球は廉価ではあるけれど破れやすいことや、このボールを使っていたら学生たちは「the reguration English or American ball」で試合することはできないだろうと指摘しています。そして「将来、大学では古いボールの使用をやめて正規のボールを使用することになるだろうが、今のところその変化の兆しはうかがえない」と結んでいました。

 この記事によって、日本のテニス事情は広く欧米のテニス界に伝えられることになります。

 この年7月には明治天皇が崩御され、大正と改元されることになります。明治期の殖産興業によって徐々に力をつけた日本の商社は世界各地に販路を広げていきました。物ばかりでなく、人の交流も盛んになります。こうして海外に出た日本のテニス関係者も、ゴム球(軟球)使用の日本式庭球からレギュレーション(硬球)使用のローンテニスへ脱皮する必要を説いて、日本の雑誌に書き送っています。シカゴ大学に留学した早稲田OBの三神八四郎もその一人でした。

慶應がレギュレーションボール採用

 ガードナーに「これはテニスではない」と言われた年の秋、慶應庭球部は実質的な完全優勝を果たします。翌1913(大正2)年2月19日、上京した先輩の歓迎会と部長の慰労会の席上、福澤大四郎、山崎健之亟、河村(のちの岡田)四郎ら諸先輩から「本塾にて率先硬球採用してはいかが」と発議されました。

 心配されたボール代などの諸経費も、先輩たちが援助することになりました。当面は東京ローンテニス倶楽部や横浜や神戸の外人倶楽部を相手に試合経験を積み、上海やマニラへの遠征試合も計画すると話しが進みます。その結果、選手会も全員一致でレギュレーションの採用を決議しました。当時は、硬球という言葉はあまり使わなかったそうです。

 翌日からレギュレーションでの練習が始まりました。その様子は当時の選手代表・野村祐一によって『慶應庭球三十年』(1931年刊、p.90)に記録されているので、その一部を現代語に抄訳し、改行や補足で読みやすくして引用します。

今から思うと軟球そのままのラケットでやっているので良くいく訳がない。打ち方などどうすれば良いのか誰も知らないのでかなり滑稽だった。早速三田の田中運動具店で古いスポルディング社(米国の大手運動具店)の小冊子を手に入れて打ち方を体得した。その内、山崎先輩らが時々コートに来てくださったのでやや呑み込めた。

服装も今までの足袋跣足は白靴にし、ユニフォームも作って四月一日から義務練習を開始した。当時使っていたボールはすべて東京ローンテニス倶楽部の払い下げ古ボールで、倶楽部で一週間使われたスラゼンジャーのものを洗濯し、白粉をぬって上皮のフェルトの破けるまで使ったのである。値は一ダース二円で入手できた。

ガットは軟球用のものを張ったのですぐ切れる。張り替えてまだ一度も使わないのにサックから出してみるとすでに二、三本も切れていることがあった。ラケットも軟球時代のものに慣れていて、たいてい一本しか持ち合わせがない。ゲーム中に切れて直るまで待たされたり、事ごとに苦労した。

四月に入って練習を開始してから朝吹常吉氏、田中銀之助氏らから各自交代に東京ローンテニス倶楽部に招待されて練習させてもらったが、皆始めは惨々な成績で帰ってくる。それもその筈で招かれればスラゼンジャーのニューボールでやり塾では例の洗濯ボールのみ使っているので勝手がまったく違う。これは明らかに判っていても経費の関係で仕方なかったが、試合前だけはニューボールを東京倶楽部から譲ってもらって練習していた。

軟球から硬球に移ってなお困ったことは選手の数の割合にコートの数の足りないことだった。二つのコートで二十余名が練習するのであるから、統制と緊張を欠かさないようにと僕はとくに苦心した。その内にコートが一つ増えて三つとなりだいぶ都合がよくなったが、軟球時代のように皆が一つコートに集まり皆の激励監督の下に練習をやる訳にいかない。一人には少なくとも一セットはやらせなければならないので午前の組、午後の組と分けてシングルスばかりをやらせ、三日目には一同朝からダブルスの練習をやらせていた。

その後、東京ローンテニス倶楽部に練習や試合に行くと、血気盛りの学生のほうが中老の倶楽部員の連中にフゥーフゥー言わされている。技術の未熟の点はあるとしても塾方は平素ロングゲームの練習をやっていないから非常の不利に陥っていることなども判った。

出典◎『慶應庭球三十年』(1931年刊、p.90)

軟球時代の慶應庭球部「明治44年3月卒業送別」写真。前列の右端が熊谷一彌、2列目の右から3人目が野村祐一、3列目の右から4人目が三觜進。1911年当時の足袋を履いている写真(前列の部員たち)として貴重な時代記録 出典◎個人所蔵写真より※人名については『慶應庭球三十年』口絵第8ページに記載あり

 こうして一通り打てるようになった慶應庭球部員たちは、5月に外国人宣教師たちのグループと対戦して勝てるようになりました。明治中期から避暑地・軽井沢に集まっていた宣教師たちは、軽井沢の教会の近くにテニスコートを設けてファミリーテニスを楽しんでいる程度というから、学生たちには物足りなかったようです。

 10月、横浜外国人のバント倶楽部との試合も楽勝しましたが、11月の東京ローンテニス倶楽部でのシングルス9試合で勝てたのは熊谷と渡邊の2名だけでした。その後マニラに遠征することになり、部内予選の結果、遠征メンバーは熊谷一彌、野村祐一、市川重二、三觜進の4名と決まります。

 ところで、慶應のレギュレーション採用は2月に急に決まったため、四大校の高商、高師、早稲田へは事後報告になっていました。各大学でも時代の趨勢は感じていましたが、この時にはまだレギュレーションを採用していません。

 なお、慶應庭球部がレギュレーションを採用した1913(大正2)年3月には、各国を統轄する12のテニス協会代表がパリに集まり、国際庭球連盟(現、国際テニス連盟)を発足させています。当初の参加は、オーストラレシア(オーストラリアとニュージーランドを統轄)、オーストリア、ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、英国、オランダ、ロシア、南アフリカ、スウェーデン、スイスでした。このとき米国協会は出席せず、非公式の代理人に委託して正式参加を保留しています。そのためデビスカップ争奪戦に関しては別組織のデビスカップ委員会が運営することとなりました。

海外での活躍と日本庭球協会設立

 1914(大正3)年1月、フィリピンに遠征した慶應庭球部代表選手はマニラ庭球倶楽部主催の東洋選手権大会に出場します。熊谷はシングルスで準決勝、野村と組んだダブルスで決勝に進出しました。
 
 翌年5月に上海で行われることとなった第2回東洋オリンピック大会(第3回から極東選手権大会)には中国が200名余、フィリピンが90名余の選手団を派遣しましたが、この年は日中間に二十一ヵ条問題の紛争があり、日本からは10数名のみの派遣となりました。この中で熊谷はシングルス、および柏尾誠一郎(東京高商OB、三井物産上海勤務)と組んだダブルスで優勝します。

 熊谷の実力が世界レベルに近づいていることは1916(大正5)年1月、2度目の参加となるマニラの東洋選手権大会で証明されました。彼はシングルスでC. グリフィン(Clarence Griffin、1915年米国ランキング7位)を破って優勝、三神八四郎と組んだダブルスでも準優勝します。

 さらに米国への帰途、日本に寄ったグリフィンと東京で再戦して勝ちます。これを見た先輩有志の間で、熊谷を米国に派遣して修行させたらどうかという話が持ち上がり、朝吹らの支援で実現することとなりました。背景には、テニスの活躍によって日本人移民問題などで揺れる米国の対日感情を緩和する役割を果たしてほしいという期待もあったようです。

 6月に初渡米した熊谷は、同行した三神のサポートもあって、西海岸、東海岸での大会で活躍します。American Lawn Tennis誌の記事には「日米スポーツ交流の道を拓きたい」という訪米の意図も紹介されています。8月には伝統あるニューポート招待大会で全米チャンピオンのビル・ジョンストン(William M. Johnston)を6-1 9-7 5-7 2-6 9-7で破り、New York Times紙にも、写真入りで詳しい試合経過が載せられました。1916年の米国ランキングでは第5位に入っています。

 帰国後に卒業した熊谷は三菱合資会社銀行部(のちの三菱銀行)社員となってからも、第3回極東選手権(1917年、於・芝浦)に出場して単複で優勝します。

 日本で初の国際大会となった極東選手権のために発行された公式の『庭球、バレーボール規定』(大正五年ヨリ大正六年ニ至ル極東競技委員発刊)には、慶應庭球部OBの和田實が訳したテニスルールが、英語原文とともに収録されました。これまで調べてきた限りではありますが、これが部分的ながら初の国際ルール日本語訳といえるようです。

 このルールブックの表紙には、発売所として「美満津商店」と「美津濃商店」(現、美津濃株式会社、ミズノ)が併記されている点でも注目されます。

 1918(大正7)年夏、三菱合資会社ニューヨーク勤務となった熊谷は再び米国を舞台に活躍して米国ランキング入りし、1918年7位、1919年3位となっています。ウインブルドン大会とデ杯争奪戦は、第一次大戦のため1915年から1918年まで中止となっていましたが、この間も全米選手権は継続していました。

ウインブルドンで清水善造、アントワープで熊谷一彌

 その頃、インドでは東京高商(現、一橋大学)出身の清水善造が活躍していました。三井物産出張員附としてカルカッタ(現、コルカタ)に赴任してから硬球のテニスに取り組みはじめた清水は、商用で出張したブエノスアイレスでアルゼンチン選手権に出場して優勝候補のイギリス人選手を破り単複に優勝しています。

 1920(大正9)年には長期休暇をとってヨーロッパの大会に出場し、ウインブルドン大会ではオールカマーズ決勝で、清水はビル・チルデン(William Tatem Tilden Ⅱ)に善戦しています。

一方、同年8月の第7回オリンピック・アントワープ大会には熊谷一彌と柏尾誠一郎が出場し、熊谷はシングルス、そして柏尾と組んだダブルスで決勝に進出して、日本初のメダル(銀)を獲得しています。

清水善造のバックハンド・グリップ。清水が独自に習得したバックハンドのスタイルが推測できる

1920年、アントワープ・オリンピックで日本初のメダリストとなった熊谷一彌(左利き)のシングルス。柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルを獲得した

 海外での熊谷、清水の活躍は日本の新聞でも報じられ、9月には国内の主な大学庭球部がレギュレーションボール(硬球)を採用することとなりました。

「日本庭球協会」発足の運び

 仕事や東京ローンテニス倶楽部の三年町移転準備を一段楽させた朝吹常吉が妻・磯子とともに欧米旅行に出発したのは4月、熊谷、清水の活躍を見聞きしながら旅を続け、再びニューヨークに戻ってきたのは10月でした。

 ニューヨーク在住の熊谷は、自分のテニスの恩人でもあり、父とも思っている朝吹に、これまでアメリカで世話になってきた米国庭球協会の主立った人々を招待して謝意を表してほしいと思い、朝吹に相談したところ快諾を得られました。

 11月8日、ホテル・プラザでの晩餐会には、会長のJ.マイリック(Julian Myrick)ら米国庭球協会関係者約15名、アメリカン・ローンテニス誌編集長S.W.メリヒュー、そして日本側から熊谷の上司・長沼史郎、柏尾誠一郎、折良く在米していた山崎健之亟らが出席しました。

 やがて話題は日本のデ杯参加の件になります。朝吹がいずれ日本にも庭球協会を設立して参加できるようにしたいと述べると、マイリック会長からは翌1921年から参加できるよう急いで準備してほしいとの希望が出されました。

 帰国した朝吹はすぐに関東、関西のテニス関係者に呼びかけ、日本庭球協会設立の準備を進めます。翌年1月28日の東京朝日新聞には「檜舞台に乗出す/日本庭球協会/本年から米国の/デヴィスカップに参加/先輩の大努力」との記事が掲載されています。

 1921(大正10)年3月に仮発足した日本庭球協会は、カップ保持国(開催国)である米国庭球協会にデ杯参加の申し込みをします。この年のデ杯には新しく7ヵ国が加わり、フランス、インド、日本、フィリピン、チェコスロバキア、ベルギー、オーストラレシア、カナダ、英国、スペイン、アルゼンチン、デンマークの12ヵ国が参加しました。

 初参加の日本は不戦勝で準決勝に進み、インド、そしてオーストラレーシアを破って、前年優勝してカップを保持していた米国への挑戦権を獲得します。こうしてチャレンジラウンドでも善戦した熊谷、清水の活躍により、日本テニスは一躍その存在を内外に示しました。

 1922(大正11)年3月に正式発足した日本庭球協会は日本テニスの統轄団体として、9月には第1回全日本選手権(男子シングルスとダブルス)を主催しました。第1回大会の単複優勝者は、早稲田大学時代には軟球で活躍していた福田雅之助(ポプラ倶楽部)です。

1922年、帝大コート(現、東京大学御殿下グラウンド)で開催された第1回全日本選手権でニューヨークカップ(優勝杯)を獲得した福田雅之助。のちにデ杯選手として渡米した福田はイースタン・グリップを取り入れ、帰国後はテニス記者として近代テニスの紹介者となった

 しかし日本庭球協会設立までの経緯があまりに急だったため、軟球使用の庭球層を会員に吸収することができませんでした。その後の日本庭球界再編の道すじについては、次回に報告の予定です。

【今回のおもな参考文献】※原本の発行順

・《American Lawn Tennis》※発行期間は1907年~1951年。前後の変遷については、Richard Hillway, Geoff Felder による「Stephen Wallis Merrihew & American Lawn Tennis」(Journal of The Tennis Collectors of America, Number 29, Autumn 2013掲載)を参照のこと。
・『庭球、バレーボール規定』(1917年刊、極東体育協会)
・『慶應庭球三十年』(1931年刊、慶應義塾体育会庭球部)
・『回想 朝吹常吉』(1969年刊、私家版)
・朝吹登水子・編『ある家族の肖像』(1987年刊、アトリエ出版社)
・JTAテニスミュージアム「日本テニス国際化の時代」(Web公開)

=ちょっと寄り道=

 設立に奔走し、初代会長となった朝吹常吉夫人の磯子(1889年生)が硬球のテニスを始めたのは日本庭球協会発足後のことでした。関東大震災のため帰京できず軽井沢の別荘(コート付)にとどまっていた磯子(34歳)にラケットの持ち方などを教えたのは、第2回日本庭球選手権で優勝したばかりの原田武一だったそうです。東京に帰ってからは、高輪の朝吹邸コートで原田のダブルス・パートナーだった青木岩雄の指導を受けるようになります。

 息子4人・娘1人の母親として、また外国人との交際の多い実業家夫人として忙しい日々を送っていた磯子でしたが、少しの時間でもコートに出て「真面目に忠実に」練習を重ねます。14歳のときにも自宅(官邸)にテニスコートがあり、翌年入学した華族女学校でも軟球の庭球が盛んでしたから、素養があったのでしょう。実力をつけた磯子は、1926(大正15)年4月の第2回関東庭球選手権ではシングルスとダブルスに優勝するまでになりました。

 寄稿文「私の日常とテニス」(《ローンテニス》誌1926年7月号に掲載)によれば、磯子は「女子に一番適したこのテニスがますます盛んになります様に」と願い、自分の体験談を語って、「関東ではあまりに引込思案の家庭が多いので情けなう御座います。どんどん運動をして立派な體格をした未来の母性が澤山現はれる事を切に希望いたします」と結んでいます。

朝吹ファミリーの季節の挨拶カードに使われた写真。左から朝吹夫妻、長男・英一、次男・正二、三男・三吉、四男・四郎、末娘・登水子。それぞれの自主独立の生き方については、石打博子・著『孤高の名家 朝吹家を生きる』(2013年刊、角川書店)に詳しい。出典◎『回想 朝吹常吉』(1969年刊、私家版)

 その後も、1929(昭和4)年10月の全日本選手権ダブルスで優勝したり、1931(昭和6)年には渡米先のビバリーヒルズでプロ・コーチの指導を受けたりした磯子でしたが、やがてテニス・エルボーをひどくしてテニスを休んでいたことがあります。ゴルフを始めたのはこの頃でしょうか。

 ゴルフ時代の「朝吹磯子」の名前は、「藤澤カントリー倶楽部」の昭和10年会員名簿の中にありました。この会員名簿は『グリーンハウス物語-戦禍に消えた名門ゴルフ場-』(善行雑学大学、2011年発行)に掲載されていて、藤澤在住の「三觜進」(1914年にマニラ遠征した慶應庭球部代表選手)の名前も見られました。

 グリーンハウスは、「藤澤カントリー倶楽部」のクラブハウスだったスペイン風の瀟洒な建物です。しかしゴルフ場は戦時中に海軍用地になり、戦後は米軍に接収されたあとに返還され、一部は社会福祉施設や学校用地として利用されることになりました。そして筆者は、その施設の母子ホームで幼少期を過ごし、小学校に通っていたのです。

 当時はかなり傷んでいたグリーンハウスは、筆者にとっては探検気分で無断進入できた思い出の場所です。そこにかつては磯子らが来ていて、私たちが遊び場にしていたあの芝生でゴルフをしていたという偶然は、過去の磯子と現在の自分との思いがけない接点でした。

2011年12月現在のグリーンハウス(神奈川県立体育センター)正面と2階の食堂。1932(昭和7)年に開場した藤澤カントリー倶楽部のクラブハウスとして、著名な建築家アントニン・レーモンドが設計した。レーモンドは、三年町時代の東京ローンテニス倶楽部クラブハウスも設計している

 さらに「藤澤カントリー倶楽部」の歴史について調べてみると、倶楽部に併設されていたという女性専用の「藤澤メリーゴルフ倶楽部」の案内書や、女性会員たちの写真などがあることがわかりました。実際に女性専用コースが設置されていたのかどうかは不明ですが、女性たちの進取の意気が伝わってくるようです。

 さて現在、グリーンハウスは歴史的価値がある建造物として認められて改修工事が始まり、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催年4月に、新たな神奈川県体育センターとしてオープンする予定だそうです。そして3階部分は展示スペースとなり、体育関係の資料やグリーンハウスの歴史および建築的価値についての展示を行う方針とのことですから、さらに楽しみですね。

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