広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第10回_勝負に徹するなら『スポーツマンシップ』はきれいごとか?

あなたはスポーツマンシップの意味を答えられますか? 誰もが知っているようで知らないスポーツの本質を物語る言葉「スポーツマンシップ」。このキーワードを広瀬一郎氏は著書『スポーツマンシップを考える』の中で解明しています。スポーツにおける「真剣さ」と「遊び心」の調和の大切さを世に問う指導者必読書。これは私たちテニスマガジン、そしてテニマガ・テニス部がもっとも大切にしているものでもあります。テニスを愛するすべての人々、プレーするすべての人々へ届けたいーー。本書はA5判全184ページです。複数回に分け、すべてを掲載いたします。(ベースボール・マガジン社 テニスマガジン編集部)

その9

勝負に徹するなら『スポーツマンシップ』はきれいごとか?

……きれいごとではなく、それこそが本質です。

KeyWord
勝利至上主義、快楽至上主義、勝利以外の価値、遊び心と真剣さ

遊び心と真剣さのバランスが大事

 “遊び心”と“真剣さ”との間でどうバランスを取るかということを忘れると、スポーツマンシップは、はるかかなたに押しやられます。この二つのバランスを取ることこそ、スポーツの本質だと言っても過言ではありません。これを間違えると、以下の極論が生じてきます。

二つの極論

 第一の極論は、勝利至上主義。勝利こそが唯一絶対のものであるとするならば、敗北には「敗北してはいけない」ことを学ぶ以外の意味がないことになります。これは競争を戦争のように考えるということです。相手は敵であり、目指すのは敵を粉砕することです。

 第二の極論は、快楽至上主義(競争否定主義)です。競争は本来的に悪だという考え方では、遊びという形式で勝者と敗者が生ずるのは心理的にもよろしくなく、教育的見地からは生産的でないことなります。するとスポーツでは勝利が価値を持たず、したがって才能や能力などはどうでもよく、競争的でないもの以外は認められないのです。「楽しめる」ことだけが重要だというわけです。

競争の本質を理解しよう

 勝利至上主義は“遊び心”を捨てさせ、快楽至上主義は“真剣さ”を排斥します。前者には「明るくいきましょう」と、後者には「真剣にやりましょう」と言わずにはいられません。スポーツというのは遊びであり真剣であるという中間の地点からは、この両極端の考え方は、実は両者とも競争の本質を誤解していると言わざるを得ません。

 勝利至上主義の態度をとられることが多いと、競争というものは本来的によろしくないと結論してしまうこともうなずけます。もし勝利がすべてだとするなら、あなたが私より優れている場合、それはいったい何を意味するのでしょうか? 負けることがわかっていたら、残念ながら私はあなたとは戦いません。なぜなら敗北には何の意味もないからです。またもし私があなたより優れていて、あなたが敗北から何も得るものがないなら、私はあなたを負かしてもそれは単なる時間の労費に過ぎないでしょう。どちらの場合でも楽しくはないのです。そして楽しくないスポーツならば行う必要はありません。最初に言明したように、楽しくないのなら、それはすでにスポーツという名に値しないのです(その1参照)。

 また、もう一方の極の「勝利など無意味だ」という方針で子供たちを指導するなら、競争というものに対してあなたは誠実さに欠けていると言わざるを得ないでしょう。もし私が勝とうが負けようがどっちでもいいと考えるなら、あるいは良い球を投げようが悪い球を投げようがどうでもいいなら、いったいスポーツにはどんな意味があるでしょうか? 勝利至上主義が倫理的に唾棄すべきなら、快楽至上主義は精神的に無意味です。

どのようにプレーしたか

どのようにプレーしたか

 確かに、初心者のころはすべてのプレーヤーが向上することができるように、平等にプレーする時間を割り当てられますが、平等に扱うという決めごとは次第にゲームの競争原理を薄めることにつながってしまいます。

 この両極端の間でうまく舵取りをするために、ゲームに参加する価値と参加することによって得られる機会のことを、はっきり説明しておく必要があるでしょう。結局は誰かが勝ち、他の誰かは負けるのですが、問題は単に勝った負けたではなく、どのようにプレーしたかということこそが大事であるということを、言葉によってきちんと整理しておく必要があると思います。

 もっと言うと、実は参加すること自体に価値を見出すためには、究極的には「あなたがどのようにプレーしたか」ではなく「ゲームはどのようにプレーされたのか」こそが重要になります。自分がどのようにプレーしたかということは、自分だけではなく、チームメイトやコーチや相手や、さらには観客やコミュニティ全体にとって、ゲームの質が高まることにつながるからです。

勝とうという努力が重要

 言い換えると、皆が参加しているそのゲームは一体どういうものなのかということが問題なのです。ゲームの中心にあるのは、ゲームの参加者が勝とうと努力することであり、その努力がなければゲームは無意味です。

「しかし、もし子供たちに勝つことが何より大事なわけではないなどと言ったら、あいつらは勝つために一生懸命にやらないのじゃないだろうか? 私は子供たちにはできるだけ競争心を植えつけたい。そして負けた時には、私と同じように悔しい気持ちを持ってほしい。それって、やっぱり勝つことがとっても重要だってことじゃあないだろうか?」

 こう思う方もいるでしょうが、どうか誤解しないでください。勝つことは本当に大事だし、また大事でなくてはならないと思います。しかしその勝利に意味があるのは、優れた競技者になろうとする中で自分自身に関することがわかってくる、という素晴らしい体験が前提としてあってこそなのです。

勝利以外の価値を得る

 勝利至上主義の一番の問題は、スポーツを通じて体得することができる他の重要な要素を阻害してしまうことです。それはまるで良い映画を見に行って、ストーリーはどんなだったか、だけを問題にするようなもの。スポーツの豊かな価値について理解を深めることは、“遊び心”と“真剣さ”のバランスをどのように取ることでスポーツマンシップを含む“勝利以外”の価値を得られ、スポーツの価値をさらに豊かにすることができるのです。

実例8 フェアプレー物語、本人はそのつもりなしーー1932年ロス五輪、竹中正一郎選手

実例8

フェアプレー物語、本人はそのつもりなしーー1932年ロス五輪、竹中正一郎選手

 正月恒例の東京・箱根駅伝をテレビで観戦した。実況の合問に、過去のレ一スの映像が映し出されて懐かしかったが、その中に、珍しや往年の慶大名選手、竹中正一郎さんの元気な姿が出てきた。それを受けて解説者が「竹中さんは1932年のロス五輪でフェアプレ一をたたえられた人です」と紹介していた。

 このフェアプレー物語は、戦後小学校の教科書にも載ったほど有名だが、意外にも当の竹中さんは、これをきっばり否定しているのだ。なぜか。

 当時25歳の竹中さんは、ただ一人の日本選手として5000mに出場した。レ一スは初めからフィンランドのレーチネンがリードしていたが、竹中選手は次第に遅れて、4000mから最後を走っていた。そのうちレーチネンが追いついてきたとき、竹中選手は右寄りに走って内側のコースがあき、そこをレーチネンが走り抜けて行った。

 これを見たスタンドの観衆は、竹中選手がレーチネンのためにコースを譲ったと見て、盛んな拍手を送り、翌日の新聞にも、竹中選手の“フェアプレー”をたたえる記事が大きく出た。竹中選手が身長154cmの小さな体だっただけに、よけい感銘を与えたのであろう。

 しかし、これについて竹中さんが、迷惑そうな顔で語ってくれた言葉が忘れられない。

「僕はコースを譲った覚えはない。ビリを走っていて、とても疲れていたので、足が乱れて右によろけたのかもしれない。仮にコースを譲ったとしたら、スポ一ツマンとして恥ずかしいことです。勝利を目指していない証拠じゃありませんか」

 これは観衆には分からなかった真相だ。ファインプレーは形として現れるから、だれが見ても分かる。しかし、フェアプレーは見ていただけでは分からない。形ではなく、選手の心だからである。

(出典:川本信正•スポ一ツ評論家、共同通信)

→このケ一スには二通りの解釈が可能です。一つは「フェアプレーに則(のっと)って」コースを譲った。もうーつは、「スポ一ツマンシップに則って」最後まで勝利にこだわった。どちらが正しいのでしょうか。答えは「どちらも正しい」のだと思います。つまりスポ一ツマンシップとはある種の行動を律する規範ではありますが、それは行動そのものを規定するのではなく、行動を規定する考え方あるいは原理に関するものだからです。

 したがって、フェアプレーに則って相手に譲ることもあり、スポ一ツマンシップに則って勝負に撤することもあるのです。

『スポーツマンシップを考える』連載第1回から第9回 バックナンバーリスト

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第1回_序章「誰もが知っている意味不明な言葉」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第2回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その1「スポーツとは何か?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第3回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その2「スポーツマンシップとは何か?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第4回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その3「フェアプレーという考え方はどうしてできたのか?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第5回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その4「なぜスポーツマンシップを教えなければならないのか?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第6回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その5「なぜ戦う相手を尊重するのか?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第7回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その6「なぜ審判を尊重するのか?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第8回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その7「なぜゲームを尊重するのか?」

広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第9回_第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」_その8「ルールを守ればスポーツマンか?」

著者プロフィール

ひろせ・いちろう◎1955年9月16日〜2017年5月2日(享年61歳)。静岡県出身。東京大学法学部卒業後、電通でスポーツイベントのプロデュースやワールドカップの招致活動に携わる。2000年からJリーグ経営諮問委員。2000年7月 (株)スポーツ・ナビゲーション(スポーツナビ)設立、代表取締役就任。2002年8月退社。経済産業研究所上席研究員を経て、2004年よりスポーツ総合研究所所長、2005年以降は江戸川大学社会学部教授、多摩大学大学院教授、特定非営利活動法人スポーツマンシップ指導者育成会理事長などを歴任した。※本書発行時(2002年)のプロフィールを加筆・修正

協力◎一般社団法人日本スポーツマンシップ協会

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