広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第12回_第2章スポーツと「生き方」との関係を考える

あなたはスポーツマンシップの意味を答えられますか? 誰もが知っているようで知らないスポーツの本質を物語る言葉「スポーツマンシップ」。このキーワードを広瀬一郎氏は著書『スポーツマンシップを考える』の中で解明しています。スポーツにおける「真剣さ」と「遊び心」の調和の大切さを世に問う指導者必読書。これは私たちテニスマガジン、そしてテニマガ・テニス部がもっとも大切にしているものでもあります。テニスを愛するすべての人々、プレーするすべての人々へ届けたいーー。本書はA5判全184ページです。複数回に分け、すべてを掲載いたします。(ベースボール・マガジン社 テニスマガジン編集部)

現代社会とスポーツ

 スポーツとは本来何であったのかを歴史的にたどってみれば、「かつてスポーツと呼ばれたもの」とそれが「どのように考えられていたのか」は時代とともに変遷していることがわかります。スポーツをどのようにとらえるのかという問題は、そのときの社会との関係によって決まるのです。

 現代の日本でスポーツとは何かを考える場合、この問題には二つの側面があると考えられます。「どのようにとらえるとスポーツは楽しいか」と「どのように捉えるとスポーツは社会にとって有用か」です。後者に関してはスポーツの公共性という問題とも密接な関係があります。

スポーツが提供している“場”

 以前、私は「スポーツのソーシャル・パフォーマンス」(『スポーツ産業学研究』第9巻)という論文の中で、スポーツの有用性という問題を論じ、現代の日本でスポーツに期待できる5つの分野を次のように述べました。

(1)公共心の育成
(2)老人医療費の減少
(3)犯罪防止
(4)経済の活性
(5)地域振興

 この中で(1)に関連した教育的な分野が、もっとも効果を期待できると考えています。

 現代の日本の抱えている問題の多くが制度に原因があると考える傾向があります。しかし、私は、どんなに立派な制度が整っても運用するのは人間であり、その人間の問題が解決しないかぎり、問題の解決は望めないだろうと考えています。ですから(1)に関して効果を期待しているのですが、“良き”人格を持った人間が“良き”運用を行えば、極端に言うなら、現行の制度で十分対応が可能なことも多いのではないでしょうか。

 そして“良き”人格とは、知識を習得する場で形成されるものではありません。そこでスポーツの登場です。スポーツが人格形成のすべてを担うなどとは言いませんし、スポーツだけがその場を提供するのでもありませんが、最も身近でその場を提供していることも明らかではないでしょうか。身近であることが、この問題解決には必要なことなのです。

行動することが重要

行動することが重要

 第1章その4でも触れましたが、アリストテレスは、「道徳は技術に似ている。どちらも実践を通して身につけるものだ」と述べています。これはその通りで、実践を伴わない道徳教育にあまり意味はありません。「タバコのポイ捨て」がいけないことは、ポスターなどを見て皆が知っています。しかしあなたは、捨てられた吸い殻を見てどうしていますか? ポイ捨てがいけないことを知っているのと、実際に捨てられた吸い殻を拾ってごみ箱に捨てるという行為の間には大きな隔たりがあります。

 私が思うに、行動として現れたものを道徳と呼ぶのではないでしょうか。同様に、理解しているだけでなく、行動として現れたものがスポーツマンシップだと言えるのです。

視野は限りなく広げられる

 ここで、スポーツマンシップに関して議論しておきたい最も重要なテーマでもある、全体を展望することの重要性について述べておきます。

 通常、物事を判断する場合、自分のいる場所から見ることが前提にあります。しかし、人間は想像力によって自分の居場所ではないところからも物ごとを見ることができます。そして人間はその視野を狭くすることも、広く開放することもできるのです。

 もちろん、人間は空間的にも時間的にも限られた存在なのですが、心には境界や限界がありません。感性や感情といった内面の世界は無限とも言えるでしょう。

広い視点で見えてくるものがある

 ただし、実際には目の前の光景や物体にどうしても影響されてしまうので、経験を語るときには、内面の動きよりも表面的な出来事にかたよってしまいがちです。
そうして物ごとを見る力は常に限定的になりがちですが、ときとして、実際に目の前で起こったできごと以上のものが見えることがあります。

 私にも経験があるのですが、重要なことについて広い観点で見ようとするなら、実際のできごと、日常の活動から一度目線をはずしたほうが良いことがあるのです。そうすると、突然今までは見えなかった何か別な光景が見えてくるのです。もちろん、初めに広い視野で物事を見ようとしなくては、それはかないませんが。視野を広げることで、そもそも何のためにそれをしているのかという原点に立ち返り、視点を再構成できるのです。

スポーツを広い視野の中で捉えよう

 話を戻すと、スポーツマンシップというものは、理解すると同時に実践が伴わなければならないものでしたね。ゲームにともなう豊かな伝統や慣習、あるいは競う相手やチームメイトやコーチ、さらには審判といったスポーツには不可欠な存在を理解して、尊重することができると、スポーツヘの見方やかかわり方が変わり、精神的な広がりが得られます。

 単に自己中心的な欲望を満たすものだったのが、人格的な向上を遂げる場となり、その立ち居振る舞いにはおのずから変化が訪れます。より広い視野、高次元な観点を得、人生は豊かになるのです。

 ここまで広げられたなら、より根本的な「人格形成という観点」から考えて、それらをあえてスポーツに限定せず、人生すべてに適用することが、より意味のあることなのではないでしょうか。スポーツを通して獲得したバランスのとれたものの見方は人生においても価値があるのです(第1章その9参照)。

広い視野を忘れると危険性も

広い視野を忘れると危険性も

 指導者がモラルの教育者という側面を持つと指摘してきました(第1章その4参照)が、それは書かれている規則を教え守らせるだけでなく、さまざまな習慣を身につけさせたり、お手本を示したりすることなどを通じて実践されます。

 しかしゲームという場には、人を元気づけたり向上させたりする可能性だけではなく、逆に危険性も存在します。その危険性は、広い視野を欠くと現れ、人を萎縮させたり人格を傷つけたりします。危険性の例として、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った円谷幸吉さんのケースなどがあります(下記コラム参照)。

コラム|男子マラソン円谷幸吉の悲劇

 1964年(昭和39年)10月21日、東京オリンピックの男子マラソン競技で、身長163センチ、体重54キロの円谷幸吉選手(当時24歳)が、3位に入った。その姿に、ラジオやモノクロテレビにくぎ付けになっていた日本中の国民が万雷の拍手を 送った。

 円谷選手は、4年後のメキシコオリンピックでの健闘を公言したが、その後、練習がままならず、大会では思うような結果が得られなかった。知り合った女性との結婚が破談に追いやられ、右アキレス腱部分断裂などの手術…と不幸が一気に襲い掛かっていた。

 1968年1月9日の早朝、官舎から冷たくなった円谷選手の遺体が発見された。享年27歳。その体の下からは「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました…」という内容の遺因が発見され、国民すべてが衝撃を受けた。

 生家のある福島県須賀川市の円谷幸吉記念館(正式名称は「円谷幸吉遺品格納室」)には、今も訪れる人が後を絶たない。(出典:共同通信)

たかがゲーム

 ゲームでの勝利が人生のすべてであるかのようにプレーすることと、それがすべてだと信じきってプレーすることの間には大きな違いがあります。この点については、プレーヤー自身よりもむしろ指導する側に責任があるのではないでしょうか?

 実際コーチは、すべてのゲームのすべての局面において、あたかもこのゲームに勝つことがこの世のすべてに優先するかのように、モチベーションを奮い立たせます。こういった場合でも、モラルの教育者としての立場からは、それに勝たなければこの世の終わりであるかのような、ここで勝たなければまったく無意味であるかのような態度で臨んでは絶対にいけません。単なるゲームなのです(第1章その7参照)。

自明の理だとかたづけないで…

 今述べたことは、おそらく「そんなことは当たり前でいまさら言う必要がない」ほど明らかなことかもしれません。しかし、自明の理というものほどクセモノなのです。それは、見せかけほど簡単な内容ではなく、それを理解するためには広い視野が必要なのですから。にもかかわらず、自明の理はあえて語られず、現実には注意を払われないことが多いものです。例えば、「人はパンのみにて生きるものにあらず」という言葉は何を語っているでしょうか? 同様に「単なるゲーム」ということも誰もが知っていますが、ゲームに熱中するあまり忘れがちになってしまいます。そのため、しばしば口に出して言っておく必要があるのです。

社会との関係で評価する

社会との関係で評価する

 単なるゲーム、たかがゲームと自覚する。このことはスポーツを聖なる、不可侵で絶対的な存在としてとらえることを避け、真の価値を見い出し、ゲームを愛し、高いパフォーマンスを追求する姿勢がよりよく生きることにどう結びつくのかといった重要な問題に目を見開かせます。これは、社会との関係においてスポーツを評価するうえで大変重要なことです。

 それはスポーツを適切な視点で見つめることであり、広い視野に基づいて、“真剣さ”と“遊び心”との適度なバランスを取ることなのです。スポーツの指導者として、そしてモラルの教育者として、こういった自明の理を、単にロッカールームに書いて貼っておくのではなく、実際に口に出して行動で示すことが重要なのだと思います。

スポーツをプレーできる幸運

 また自分達が関わっている競技について、ある種の慎み深さ、奥ゆかしさというような態度も必要でしょう。決して傲慢にならないように気をつけなければなりません。確かにゲームは、人をやる気満々にさせ、のめりこませ、喜びを与えるものではありますが、せいぜいのところ「素晴らしいが取りとめもないこと」なのですから。このように表現することは、決してスポーツをおとしめたり悔辱したりすることではなく、むしろ占めるべき位置を確定させることなのです。

 当然のことですが、スポーツは、参加者に実践とその喜びを与える唯一のものではありません。音楽や芸術、あるいは数学だってスポーツに負けずに豊かな内容があり、教育的な側面を持ち、実際に行うと楽しいものです。謙虚な気持ちで、他の人が行う様々な活動に目を移せば、実際スポーツという存在が人生全体の中では決して圧倒的な割合を占めていないことがわかります。

 ですから、スポーツを指導するうえで、プレーヤー達に理解させねばならないのは、人生の中で圧倒的に大きなものではないけれども、非常にユニークな価値のあることを追求しプレーできることが、どれほど幸運かということです。

かけがえのない場、そしてGood Fellow

 また、同じように、スポーツは人格形成の場を提供すると述べてきました(第1章その4など参照)が、スポーツだけが忍耐強さや、尊重する態度、信頼できる責任感、勇気をもってフェアに正直に対応する、などの美徳を身につける場でないことは明白です。若者が何かを実践して修練する場を得れば、そこには固有の規則や基準、伝統などがあり、修練を通してさまざまな美徳が身につくことは疑いの余地がありません。

 しかし、スポーツは今や生活の中に広がりを見せ、重要性を増していますので、若者に対して、スポーツの中だけではなく人生においても成功し尊重される存在になるための機会を与える力を十分に持っています。ドラマティックな勝負、目標に向けて努力すること、厳しい試練を一緒に乗り越えることを通じて、若者に貴重な体験をさせることができるのです。スポーツはすべてではありませんが、現実的な実践の場としては確かにかけがえのない場なのです。

 スポーツにおけるモラルの習得とは、生きる上で良い(good)習慣や価値観を身につけるということであり、したがってスポーツマンはGood Fellow (=良い仲間)だと言うことができるのです。

「いかに生きるか」という視点

「いかに生きるか」という視点

 スポーツという場は、特に勇気や責任感といったものを身につけるのに向いているようですが、競技の現場で実際にどのように振る舞うかという問題に直面したとき、いかに生きるかという最も根本的な視点から問題をとらえる習慣ができているでしょうか?

 その習慣があまりないため、実際にスポーツが知的な批判力や、内省する力をはぐくむ場になっているかどうかを問われると、どうも心許(こころもと)ない気がします。

よく考えることが重要

 繰り返しますが、スポーツは肉体を使って競い合う遊びです。またモラル教育は、むやみに何かを一方的に教え込んだり、洗脳したりすることでは決してありません。経験をとおして自らがしっかり考え、そのうえで適格な判断力を養うことで初めて、モラルを身につけることが可能になるのです。従ってモラル教育とは良き人格に基づいて的確に考える力を養うことであり、良き精神と優れた思考力の両者は不可分であり不可欠なのです。

 ですからプレーヤーたちに単純な従順さを求めるのではなく、よく考える習慣を身につけさせることが肝要です。スポーツの場でよく考えることの必要性を理解させ、現実に実践させることが何にもまして決定的に必要なのです。

「何も考えるな」と言うのは指導者の怠慢

 おそらく現場ではプレーヤーたちに、「他のことは何も考えないで集中しろ」と求める傾向が強いと思います。しかし、そこで実践された行動が当人の人生にどのような意味があるのかを吟味し、どうすべきかを考え、「何も考えるな」という言葉が何を意味するのかを教える必要があるのではないでしょうか。それを考慮せずに、単に「何も考えない」ように強要するのは、教える側が「何も考えない」ですむ対応だと言えますから、その怠慢に関しては反省しなければなりません。

 ゲームの最中にじっくり考えるのは無理だとしても、少なくともゲームの後に個々のプレー、個々の選択についてその意味を考えさせることは可能です。スポーツをさせれば自然に良い人格が身につくというのは錯覚です。指導者が正しく導いてやることが不可欠なのです。

スポーツは隔絶された世界?

スポーツは隔絶された世界?

 さて、スポーツの場で人格を養うということは、決してスポーツが本来もっている気晴らしや、ぞくぞくする興奮や、競い合う喜びといった楽しさを損なうことではありません。

 中には日頃の現実から逃れる場としてスポーツをとらえる人もいるでしょう。あるいは現実の社会では必ずしも正邪がはっきりしないのですが、スポーツこそ正しく強い者が勝利を得る、つまり原因と結果の因果関係が明白な、理想的な環境だと考える人もいるでしょう。いずれの立場も、スポーツを日常の現実生活とは違う、隔絶した場ととらえた考え方です。

現実とも深くつながつている

 それはそれでたしかに一理あり、そこに価値があることも認めます。隔絶され完結した世界でそれ自身が独立した価値を持っているという意味では、芸術と似たところがあるかもしれません。

 しかし、芸術と同様にスポーツも表面的なものだけでなく、その根底では現実生活と深くかかわっています。ある競技を指導するときに十分考え、深くそして真摯に対応すれば、スポーツが現実を映し出す鏡のような役割を果たしているという側面を実感できるに違いありません。

人生をどう考えるか

人生はゲームのようなものだ」と言われることがあります。「生きることは結局働くことなのか、それとも遊ぶことなのか」と問うことは、「スポーツをどうとらえるか」と問うているのと同じなのかもしれません。もし人生が働くことなら、遊ぶことは働く現実から逃れること以上の意味はありません。しかし、スポーツを通じて真剣に遊ぶという体験は、「人生をどう考えるか」に少なからず影評を及ぼすはずです。

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