マルチナ・ナブラチロワ「最強のサーブ&ボレーヤー」

マルチナ・ナブラチロワ----彼女のシングルス167勝、ダブルス177勝という記録は、どちらも男女を通じて歴代最多のツアー優勝数。1983年にはシーズン86勝1敗という大記録を残した。リスクを恐れずにサーブ&ボレーで前へ出る姿勢は、ナブラチロワの生き方そのものでもあった。女子テニスを高いレベルに引き上げた功労者でもある。【2015年8月号掲載】

Martina Navratilova◎1956年10月18日生まれ。チェコスロバキア・プラハ出身。自己最高ランキング1位(1978年7月)、ツアー優勝単167勝(うちグランドスラム18勝、ウインブルドンは大会最多の9度のV)、複177勝。1994年引退。1975年にアメリカに亡命し、アメリカの市民権を取得したが、2008年にチェコ国籍を再取得し、現在は二重国籍

写真◎Getty Images

エバートとのライバル関係

 マルチナ・ナブラチロワの名が女子テニスの記録に初めて登場したのは、1973年2月アメリカのフォートローダーデールで開催された大会だった。チェコスロバキアから来た当時16歳のナブラチロワは、2回戦でアメリカのリンダ・トゥエロという選手に敗れている。

 当時の女子テニス界はビリー・ジーン・キングやマーガレット・スミス・コートの全盛期。ウーマンリブの熱にも煽られ、男子に負けない女子テニスの歴史を築くという機運の高まりが激しさを増し、キングと男子のボビー・リッグスが有名な「バトル・オブ・セックシーズ」(男女対決)をテキサス州ヒューストンで3万人以上の観客を前に行ったのも、この年だった。

 ナブラチロワはこの熱の中で、そのキャリアをスタートさせた。通算で1442勝219敗、シングルスで167回、ダブルスで177回優勝し、そのうちグランドスラムではシングルスだけで18勝、単複混合を合わせると59勝というとてつもない記録を残した怪物は、女子テニスの古典時代を完全に終わらせ、プロのアスリートのスポーツとして、その基準を一変させた存在となった。

「当時の彼女はオーバーウェイトに見えたけれど、猛々しく、そして才能があった」と後にナブラチロワと2人で女子テニス界の双璧を成すことになるクリス・エバートは、73年3月のオハイオ州アクロンでの初対戦を振り返っている。

 両者はこの後、エバートが引退する89年までに80回対戦し、対戦成績はナブラチロワの43勝37敗という歴史を刻む。男女を含めても史上最高のサーブ&ボレーヤーのひとりと言える情熱的なナブラチロワと、「アイスドール」と呼ばれて常に表情を崩さず正確無比のストロークを武器としたエバートの対決は、世界的なテニスブームの中でのゴールデンカードであり、両者の対決が女子テニスの地位を飛躍的に高めた。

1975年にチェコスロバキアから亡命

もし、1970年代から80年代にかけての女子テニス界が、この2人のいずれかを欠いていたとしたら、今の女子テニスの人気や地位がどうなっていたかわからない。今ではやや安売りされているような印象も強くなってしまった「レジェンド」という言葉は本来、彼女たちのような選手たちにだけ許される表現であり、与えられる称号だろう。

 とはいえ、ナブラチロワの伝説は、天才少女と呼ばれたエバートとは違い、努力で勝ち取ったものという側面も強い。

 ナブラチロワは75年に当時は社会主義体制だったチェコスロバキアから亡命する形でアメリカに渡ったが、家族を母国に置いて来たストレスや、西側の悪しきライフスタイルの影響を受け、エバートが話していた通り、当初は完全にオーバーウェイトになり、その才能を結果に結びつけるまで、やや時間を要している。

 のちに彼女は「亡命当初はハンバーガー中毒になった」と笑い話にしたことがあるのだが、グランドスラムの初優勝は21歳だった78年のウインブルドンまで待たなければならず、さらに本格化を遂げるのは20代も半ばになった80年代初期の話で、今の視点で見てもやや遅咲きの部類に入る成長曲線を辿っている。

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