レイトン・ヒューイット「炎のファイター」

20歳8ヵ月での世界ランク1位は男子史上最年少記録。16歳の若さでプロに転向し、直後にツアー初優勝。グランドスラム優勝は2回のみに終わったものの、スピードを武器にガッツあふれるプレーで高い人気を誇った。1月の全豪オープンで18年間のプロ生活に終止符を打ち、オーストラリアのデ杯監督として再スタートを切る。(※原文まま、以下同)【2016年3月号掲載】

レジェンドストーリー〜伝説の瞬間〜

Llyton Hewitt|PROFILE

1981年2月24日生まれ。オーストラリア・アデレード出身。自己最高世界ランキング1位(2001年11月19日)、ツアー通算単30勝、準優勝16回

写真◎BBM、Getty Images

「レイトンはチャンピオンの魂を持っている」

 ピート・サンプラスは、そう言葉にした。レイトン・ヒューイットは2001年11月19日付の世界ランキングでナンバーワンの座についた。20歳8ヵ月のことだ。これは1973年に現行のコンピュータ・ランキング制度が始まって以降は最年少記録である。

 父親がオーストラリアン・フットボールの選手で、母親が体育教師という家庭に生まれたヒューイットがテニスを始めたのは3歳の頃だったが、テニスに専念し始めたのは13歳を過ぎてからと遅い。ヒューイットはその後もオーストラリアン・フットボールへの憧れが捨て切れなかったようで、テニス選手として有名になった後にも地元のクラブチームのエキシビションマッチに参加したこともある。オーストラリアン・フットボールはアメリカン・フットボールをプロテクターなしで行うような激しい競技。ヒューイットの類い稀なる闘志と団体戦のデ杯に対する献身性は、この競技の経験によって培われたと見るべきだろう。

 小柄で、武器と呼べたのは回り込んで打ち込んでいくフォアの逆クロスと、正確無比なバックのダウン・ザ・ラインぐらいだったが、リターンのタイミングの早さ、そしてコートカバーの素早さでは他の追随を許さないスピードがあった。

 パワー化の弊害が叫ばれ、2000年代初頭に一時、ラケットのフェイス面積の大型化をより強く規制すべきという声が上がったことがあったが、ヒューイットと同じオーストラリアのマーク・フィリポーシスが「そんなのレイトンに、もっと遅く走れと言うのと同じだ」と表現したことがある。この言葉こそ、当時のテニス界におけるヒューイットの存在感を端的に示している。全盛期のヒューイットはテニス界における「スピード」の代名詞だった。

 ヒューイットのスピードは単に足が速いという意味のものだけではない。ベースライン付近の高いポジションで打ち粘り、回り込みのフォアを深くコートに返して相手を崩すと、一気に間合いを詰めてフィニッシュへと持っていった。また、オーストラリア伝統のネットプレーを身につけていたボレーは堅く、相手がネットに出てきたときのパッシングショットも正確無比で、左右だけでなく、上の空間を巧みに使ってポイントを支配した。

 1990年代型のビッグサーバーたちはヒューイットのリターンからの早い攻めに対応できず、同じくストローカーたちはヒューイットのコートカバーの素早さに対抗するため、リスクをとってライン際をタイトに攻めざるをえなくなって自滅させられた。男子テニスの「スピード」の基準を一気に引き上げたのは、ヒューイットだったと言ってもいい。

芝を得意としたヒューイット

2002年ウインブルドン優勝。決勝でダビド・ナルバンディアンを下した

2002年のウインブルドンは、この年から全面ライ芝に変更されたこともあり、サーフェス・スピードが大幅に下がった年としても記録されているが、サービス力のないヒューイットがリターンを武器に、この年のウインブルドンを制したのも高い精度でスピードを操る能力を持っていたからだ。実際、芝を得意とし、ロンドンのクイーンズクラブでは大会3連覇を含め4度の優勝を誇る。これが彼を特別な存在にしている理由でもある。

 ビッグサービスを持たず、小柄で非力。この種の選手の場合、普通はショットの精度を上げ、ロングラリーで勝負するストローカーへの成長が理想的とされ、スローサーフェスで利点があると言われる。

 だが、ヒューイットは高速サーフェスを好んだ。オーストラリアン・オープンがそれまでのリバウンドエースという低速型のハードコートから、現在のプレクシクッションに変更される際、ヒューイットが望んだのは「速くすること」だったという。オーストラリア協会も彼の要望に応える形で何度もテストを行って、できる限りサーフェス・スピードを速くしたというのだが、プレクシクッションに変更された2008年大会後のヒューイットは「まだ遅い」と公に抗議し、テストに当たっていたトッド・ウッドブリッジなどを困惑させたという逸話もある。

 小さく、非力な分だけタイミングを早めて対抗する。今の錦織圭も同じアプローチだが、自分の時間を削り取る分だけ、ほんの些細な誤差が命取りとなるリスクの高いスタイルでもある。ヒューイットはそのリスクを脚力の高さで補い、自ら背負うプレッシャーをその闘志ではね返した。

 2001年USオープンの優勝と、2002年ウインブルドンの優勝。そして1999年と2003年のデ杯制覇が、彼のキャリアのハイライトだろう。

 2001年USオープンの決勝の相手はサンプラス。サンプラスには前年の準決勝で敗れていて、リベンジの機会としてはこれ以上ないという条件が整えられていた。サンプラスはすでに晩年で、このときのランキングも10位。しかし、この大会のサンプラスは4回戦で1997、1998年大会を連覇したパトリック・ラフター、準々決勝でライバルのアンドレ・アガシ、準決勝では前年の決勝で敗れたマラ・サフィンを破っての決勝進出で、完全復活を印象づけていた。

 だが、ヒューイットはストレートで退けた。しかも、第1セットこそタイブレークの接戦だったが、第2セット以降はサンプラスに1ゲームずつしか取らせない完璧な試合運びでの勝利だった。14度の優勝回数を誇るサンプラスが、グランドスラムの決勝で敗れたのはたったの4回。完全復活に見えたサンプラスを、単に激戦の連続で疲れきった選手に変えてしまったのは、ヒューイットのスピードだった。

 この試合でサンプラスが奪ったサービスエースは11本だが、ダブルフォールトが6本。ヒューイットに6度のブレークを許した。サンプラスとしてはありえない数字だが、これもヒューイットのリターンがプレッシャーをかけ続けていたからだ。サービスが命のビッグサーバーたちを除けば、今日までを見渡しても、サービスゲームの支配力でサンプラス以上の選手を探すのは難しい。そんな「伝説上」の相手を、まだ20歳のヒューイットが倒した。長く続いたサンプラスの時代はこれではっきりと終わりを告げ、完全に「ニューボールズ」たちの時代になったのだと、当時、誰もが思った一戦だった。

2001年USオープン決勝はサンプラスと対戦

全身全霊をぶつけて戦う、激しすぎる闘志

「僕はコートの中で全身全霊をぶつける。それで観客を巻き込んで戦うのが好きなんだ」とヒューイットは言う。

 だが、その激しすぎる闘志はテニスの伝統的なスポーツマンシップと相容れず、時には悪役視されることも多かった。しかし逆境にあっても、まったく動じないその姿を肯定する選手たちもいた。精神的に繊細なファンマルティン・デルポトロにとってのヒューイットは「純粋な憧れの存在」であり、ラファエル・ナダルもヒューイットの闘志の激しさを認めている一人だった。

 2006年頃からは股関節や下半身に故障を頻発させ、この10年ほどは手術とそれからの復活の繰り返しだったのが惜しまれる。「5回も違う手術を受けたんだ。それはもうたいへんだった」と話したのは、フェデラーを破って通算29度目のツアー優勝を果たした2014年のブリスベンでのことだ。一時は医師に現役の続行は不可能だと言われたというが、晩年はほぼデ杯のためだけにプレーを続け、昨年はチームをベスト4に導く原動力となり、デ杯監督への就任も決まっている。

 オンコートでのヒューイットの態度には賛否両論があり、どちらかと言えば否定的な声のほうが大きかったのも確かだが、そこまで自分を曝け出して追い込める選手だったからこそ、彼は自分の時代を築けた。

 下半身が使い物にならなくなるまで、ヒューイットがコートを走り続けられたのは、たとえ選手寿命を削ってでも自分の肉体を最後まで使い切れる破格の選手だったことを示している。21世紀最初の王者は、最初から最後まで「チャンピオンの魂」を持った男だった。

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