古今東西テニス史探訪(12) 長崎外国人居留地のテニス物語

『1億人の昭和史 第13巻:昭和の原点 明治(中)』(1977年刊、毎日新聞社)の第180ページ掲載。【原写真は長崎歴史文化博物館所蔵】




■「一本松テニスクラブ」での集合写真

 突然話は変わりますが、2018年10月、翌年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』の見どころ紹介本として発行された『オリンピックに懸けた日本人』(2018年10月刊)を読んでいたときのことです。その第104ページ、後藤光将氏執筆による「近代日本のスポーツ事始め」記事中の「テニス」に掲載されている「一本松テニスクラブの集合写真」を見つけました。

「一本松」とは、グラバー邸の代名詞です。つまり1880(明治13)年のグラバー邸に集まってローンテニスをしている人々の集合写真でした。その写真は、「長崎大学附属図書館蔵」とのことです。

 さっそく長崎大学附属図書館の「幕末・明治期日本古写真データベース」で検索したところ、この写真は「ポッター・アルバム」に保存されていました。つまり、1871(明治4)年に来崎し、グラバーが関与した高島炭鉱や三池炭鉱に勤務したイギリス人鉱山技師フレデリック・アントニー・ポッター(Frederic Antony Potter)が、1882(明治15)年に帰国するまでの写真アルバムということです。

 写真には、ポッター自身による手書きで人物名などが付されているそうです。その意味でも貴重な資料ですが、ここではテニスコート関連に限定して、グラバー(最前列の右から2人目で斜めになっている人物)、ポッター(最前列の左から2人目)、そして当時は旧オルト邸に住んでいたヘンリー・ハント(Henry J. Hunt)夫妻の名前だけを転記することにします。

 夫人たちもラケットを手にしています。左端の日本人らしき男性は庭師でしょうか。ゲームの世話係もしているように見えます。その背後に見えるネットやラケットの形からみて初期のローンテニスと思われます。

 撮影年代は1880(明治13)年と書いてありました。写真名称を「The Ipponmatsu Tennis Club」としてありますが、そのような名称を冠するクラブが存在していてグラバーが運営していたのか、あるいは便宜的な呼称なのかはわかりません。


一本松テニスクラブの集合写真。【長崎大学所蔵「ポッター・アルバム」より】


ハント氏の邸宅から見たグラバー邸方面。【長崎大学所蔵「ポッター・アルバム」より】

「ハント氏邸から見たグラバー邸方面」の画像を拡大してみると、一本松が目印になっているグラバー邸の向こうには、港に停泊している船舶や長崎を囲む山々も写っています。しかし、ハント氏の住んでいた旧オルト邸(14番)とグラバー邸(3番)の間に、グラバーの弟が建てたという建物(2番。のちのリンガー邸)は見えませんから、こちらは1867(慶応3)年より以前の写真と思われます。

 この2枚の写真によって、1880(明治13)年当時に、グラバー邸の裏庭でローンテニスが楽しまれていたことが確認できました。

 しかしこの時点では、まだ「長崎でローンテニスを楽しむ人々の集合写真」の撮影地、撮影時期などを特定することはできていません。


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