古今東西テニス史探訪(6)テニス用具国産化と「庭球」
テニス用具国産化と「庭球」
国産テニス用具の登場
殖産興業を目指していた明治政府は、海外での万国博覧会を参考にして国内でも勧業博覧会を開催しています。1881(明治14)年に上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会では、体操伝習所からも9項目の教育用品が出品され、「戸外遊戯器具類」項目には、国産品の循環球(クロッケー)用品1組(神田紺屋町 渡邊徳次郎製)、ベースボール用品1組(神田美土代町 森田金兵衛製)と、米国製の蹴鞠(ゴム製フットボール)が出品されています。
第二回内国勧業博覧会に躰操伝習所(体操伝習所)から出品された運動用具類。第三十六號の戸外遊戯器具類の製造者となっている渡邊徳次郎、森田金兵衛、および第三十五號の躰操器具類と第三十九號の身長測器を製造した田中喜十郎らは運動用具製造の草分けとなった。彼らは、体操伝習所教師(米国人教師・G.A.リーランドや通訳をした教師・坪井玄道)が示した見本や指導を受けて製造したという。出典◎『文部省教育品陳列場出品目録』(1881年刊)※国会図書館所蔵-インターネット公開あり-
参考資料:筑波大学附属図書館サイトで、1999年の特別展目録『身体と遊戯へのまなざし-日本近代体育黎明期の体操伝習所(明治11~19年)-』(PDF版の「展示目録」)を閲覧することができます。
「ロンテンス」用品が出品されたのは1887(明治20)年、東京府が上野公園で開催した工芸品共進会においてでした。ウィンブルドンで第1回大会が開催されてから10年後のことです。
出品目録の「第五類 教育及ヒ学術上ノ器具」項目には、主に木製の体操器具を製造している神田区鍛冶町の中島辨次郎より「ロンテンス」用品が出品されていました。内容は「ロンテンス」(槐)3種類各1個、「ロンテンス附属網」(麻糸)1個、「ロンテンス附属玉」(羅紗ゴム)4個1組となっています。「ロンテンス(槐)」とは、えんじゅの木のラケットと推測して間違いないでしょう。
ボールは「羅紗ゴム」ということですから、厚地の毛織布でカバーされていたゴムボールと考えられます。ただし、そのゴムボールに関しては詳細が不明です。主に木製品を扱っていた中島辨次郎は、おそらく輸入品の中空ゴムボールに羅紗を被せてローンテニス用セットとして出品したのではないでしょうか。
輸入品のゴムボールであれば、明治10年代から出回っていました。舶来(輸入品)の和洋物諸品を扱っていた丸善商社唐物店(のちの丸善株式会社)の1880(明治13)年商品目録には、「ゴム鞠」「ゴム色マリ」「ゴム鼠マリ」、そして1888(明治21)年商品目録には「学校運動用フートボール」「学校運動用ベースボール」とともに「鼠ゴムマリ」が掲載されています。「鼠」とは、前後の事例からみて、ネズミ色と判断できます。
同じく1887(明治20)年の共進会には、土谷秀立(浅草区神吉町)からフットボールも出品されていました。
1887(明治20)年に東京府が主催した工芸品共進会に出品された「ロンテンス」製品。中島辨次郎は、木材を刳って工芸品を制作するクリ物師だった。そもそもは坪井玄道の依頼を受けた三浦亀吉という人物が中島に依頼したという。「三浦は明治15年3月に体操器械運動具店を開き、明治22年に安藤商店と改名した」という説もある。出典◎『東京府工芸品共進会出品目録』(1887年刊)※国会図書館所蔵-インターネット公開あり-
大日本帝国憲法が発布された翌年、1890(明治23)には第三回内国勧業博覧会が開催されています。「第三回内国勧業博覧会出品目録 七」の「東京府 第一部 第六類」の部には、土谷秀立/田寄忠篤(浅草区神吉町)より「護謨見本」として「フートボール」5種類や「自転車車輪護謨」2種類などが出品されています。
一説に、「土谷秀立/田寄忠篤らが設立した三田土ゴム製造合名会社がこの年、1890(明治23)年にテニス用ゴムボールの製造を開始した」と伝えられていますが、その根拠となりそうな出品は見当たりませんでした。やはり基準球とも言われるようになった赤M印ソフトテニスボールの本格的な製造開始は、1900(明治33)年以後のことのようです。なお「M」は三田土の頭文字で、ボールの製造は昭和ゴム株式会社に引き継がれています。
同じく第三回内国勧業博覧会の「東京府 第五部 第一類」の部には、寺本善三郎(浅草区新平右衛門町)から「ロンテンスバット教育体操器」(ラケット)が出品されています。
また「伊藤卓夫(神田区猿楽町二丁目)」から、ベースボール、クロッケー、クリケット、フットボールとともに「ロンテンス」などが出品されています。なぜか「伊藤」と記されていますが、正しくは「伊東」と考えられます。伊東卓夫は博覧会の6種類の褒賞のうち7番目の等級ながら、「体操用具」に対する「褒状」を受賞しています。
上記で見てきたように、明治20年代には国産用品が登場するほどにローンテニスが普及していたことがうかがわれます。
訳語「野球」と「庭球」
明治期の学校制度は徐々に整備されました。かなり大雑把な目安ですが、1892(明治25)年当時には、初等教育として尋常小学校(6歳~10歳)、高等小学校(10歳~12歳)、中等教育として尋常中学校と高等女学校(12歳~17歳)、高等教育として高等中学校(17歳~20歳)、帝国大学(20歳~23歳~25歳)、そして高等商業学校(17歳~22歳)や、尋常師範学校(男子17歳~21歳)、高等師範学校(21歳~24歳)、女子高等師範学校(17歳~21歳)というコースができていました。さらに別に各種の私立学校が設立されています。
各学校のスポーツ活動も組織化され始めて、1886(明治19)年に帝国大学運動会、1887(明治20)年に高等商業「運動会」、1889(明治22)年に学習院「輔仁会」が結成されました。
帝国大学へのエリート・コースとなる第一高等中学校の場合は、1890(明治23)年に、職員生徒および関係者を会員とし、「文武ノ諸技芸ヲ奨励スル」ことを趣旨とする「校友会」が結成されています。
校友会が設立された当時の第一高等中学校は本郷区の帝国大学に隣接する向ヶ岡弥生町に移転していて、まだ全寮制度ではありませんでしたが、予科の生徒たちが入寮を義務づけられていました。
校友会に所属した当初の9部は、明治20年代の東京に集まった学生たちの関心を代表しています。「文芸」は新しい時代の新しい文学、「撃剣」「弓術」は日本古来の武道、「柔道」は東京大学学生だった嘉納治五郎が編み出した武道とスポーツの融合、「遠足」は健脚鍛錬と集団行動、「ボート」と「陸上運動」は欧米学生スポーツの伝統競技、「ベースボール」は米国育ちの新しいスポーツ、そして「ロンテニス」(ローンテニス)は英国で考案された古くて新しいスポーツです。
各部の活動内容は第一高等中学校『校友會雑誌』に報告されています。第2号(明治23年12月発行)に記載されている各部規則のうち「ローンテニス部規則」を、以下に転載します。
ローンテニス部規則
第一条 新ニ入会セント欲スルモノハ其證トノ本遊戯ニ使用スル護謨球(中形)三個ヲ本会幹事ニ納付ス可シ
第二条 已ニ入会シタル者ハ何時タリトモ遊戯ヲ為スヲ得
第三条 遊戯ニ使用スル器具ハ総テ大切ニ取扱フ可シ
若シ破損スルコトアルトキハ直ニ其旨ヲ幹事ニ通知ス可シ
但シ事情ニ因テ其器具価値ノ幾分カヲ賠償セシムルコトアル可シ
第四条 球ノ破ルルトキハ本会幹事ニ乞フ可シ
第五条 遊戯ヲ終リタル後ハ必ズ其器具ヲ一定ノ場所(当分ノ中化学室側の小使室)ニ入レ置ク可シ
第六条 微雨タリトモ決シテ遊戯ヲナス可カラズ
第七条 各級ニ委員一人ヲ置キ各級ニ於ケル本会ノ事務ヲ周旋セシム
どうやら消耗品の護謨球(ゴムボール)は物納ですが、ラケットを含む器具一式は共同使用できる取り決めで活動していたようです。
翌年秋の第7号(明治24年5月発行)によれば、「ロンテニス部大会」には80名程が集まり、33試合が行われています。
第22号(明治25年12月発行)の「ロンテニス部大会」記事には、「シングル、ゲームの五人抜き」が面白かったと書いてありますが、午前9時から始めて午後1時に終わったということです。
第25号(明治26年3月発行)には、「ロンテニスの流行」と題した、次のような記事がありました。この文の投稿者は不明ですが、当時のテニスに対する批判を的確に代弁しています。(旧字体を新字体にし、なるべく現代表記に近づけて引用しました。以下、同じく)。
「一方には、ベースボールの、非常の衰頽あれば、一方にはテニスの大流行あり。校友の遊技も、亦走馬燈に似たるものあるか。今やテニスのグラウンド構内構外を合して、十を過ぐる一二、テニスの流行も亦盛りと謂ふべし。想ふにテニスは、もと優柔の技、強力を要せず、忍耐を要せず、一打一投最も安全なる者、故を以て、欧州諸国にては、婦人の愛好する所。我が校友の好む壮快活発と、全く相容れざる者。その此所に至りたるもの、我れ終に其所以を知らざるなり。若し我校友にして、この種の遊技に向ひたるに因るとせば、余輩は大に寒心せざるべからざるなり、」
当時は、海外でも、国内でも、「ローンテニスは軟弱な個人スポーツ」と見なされることが多かったのです。
翌1894(明治27)年6月には高等学校令が公布され、第一高等中学校は「第一高等学校」と改称されました。時代的にも大きな転換期を迎えて、7月には日英通商航海条例が締結され、幕末以来の悲願であった不平等条約が改正されると同時に、朝鮮をめぐる紛争が拡大して8月に日清戦争に始まります。講和条約が調印されたのは、翌年4月でした。
この間、1895(明治28)年2月には第一高等学校《校友會雑誌》の号外が発行されています。副題は「野球部史 附規則」となっていて、全65ページの前書きには、訳語の説明として「…(略)…余ハろんてにす部ヲ庭球トシ我部ヲ野球トセバ大ニ義ニ適セリト信シテ…(略)…」と発表されています。日付けは「明治二十七年十月二十八日」で、「余」とは一高生だった中馬庚でした。彼は帝国大学に進み、1897(明治30)年には「野球部史」を補完して『野球』を刊行しています。
第一高等学校《校友會雑誌》の号外(1895年刊)の巻頭ページ。ベースボール部を「底球部」と訳していたのは京都の第三高等学校。ちなみに2年後の1897年に単行本化された『野球』に挿入された写真の撮影者・小平浪平はローンテニスの愛好者だった。のちに株式会社日立製作所の創業者となっている。
そして、附録ページの「我部ト校友会各部トノ関係」の「ろんてにす部」との関係については、「我部員ニシテてにすノ名家ヲ以テ称セラレル者多」く、「てにすノ技ハ遂ニ我部ノ附庸ノ姿ヲナセリ」と書いてあります。寄宿舎生活を送っていた野球部員は余技としてテニスをしながら上達し、実力はテニス部員を凌ぐようになっていたようです。
かくて第54号(1896:明治29年2月発行)によれば、「テニス部はその委員より進で廃止のことを申出」て、廃止されたとのこと。つまり、一高ロンテニス部は野球部に吸収されてしまったと理解することもできますが、逆にテニスを愛好する学生たちの場合はそれぞれ自由にテニスを楽しめる別の環境が整ってきたとも考えられます。
第58号(明治29年6月発行)附録には、横浜彼我公園(現在の横浜公園)に遠征した一高野球部と横浜外人チームとの試合詳報やエピソードが力のこもった文章で報告されています。5月23日、初めての国際野球試合とも言われる第1戦で一高は29-4、続く6月5日の第2戦で32-9と大勝し、意気盛んでした。一高チームを引率したのは中馬庚で、ピッチャーは青井鉞男でした。青井はローンテニスの名手でもあります。
第3戦にも連勝した一高野球部の活躍は読売新聞など一般紙にも掲載され、野球に対する社会的関心を集めました。日清戦争後の高揚した気分が反映しているようです。
【今回のおもな参考文献】※原本の発行順
・第一高等(中)学校《校友会雑誌》第1号(1890年11月発行)~第58号(1896年6月発行)
・玉澤敬三・編『東京運動具製造販売組合史』(1936年刊、p.115)
・昭和ゴム社史編集委員会・編『昭和ゴム30年小史』(1969年刊、昭和ゴム株式会社)
・渡辺融「東京大学開設当時における体育とスポーツに関する一考察」(《体育学紀要》第1号:1960年6月、所収)
・渡辺融「明治期の中学校におけるスポーツ活動」(《体育学紀要》第12号:1978年3月、所収)
・木村吉次「旧制一高の校風論争とスポーツ」(『スポーツナショナリズム』1978年刊、大修館〈シリーズ・スポーツを考える 5〉、所収)
・國雄行『博覧会と明治の日本』(2010年刊、吉川弘文館)
=ちょっと寄り道=
今回は明治20年代のテニス動向について、用具製造史と第一高等学校校史を軸にして調べてみました。ところが、当時の日本のテニスをイメージすることのできる適当な写真を見つけることができませんでした。
代わりに、1885(明治18)年頃の米国バーモント州イーストコリンスのテニス・ファミリー写真と、1889(明治22)年の米国ロードアイランド州ニューポートの米国選手権会場写真をご覧ください。
1885年頃、バーモント州イースト・コリンスのKemp familyの写真。後列中央の少年が手に持っているボール、それぞれのラケットの形、服装などどれも興味深いが、前列右端の男性が持っている網の用途は謎。写真はAlbumen print(鶏卵紙プリント)出典◎Jeanne Cherry 『Tennis Antiques & Collectibles』(1995年刊)、167ページ
1889年8月28日にロードアイランド州のニューポート・カジノで開催された米国シングルス選手権大会の光景。1881年から1914年までのシングルス大会会場だった同地には現在、国際テニス殿堂(International Tennis Hall of Fame)が置かれている。出典◎H.W.Slocum『Lawn Tennis In Our Country』、155ページ ※米国議会図書館(Library of Congress)所蔵-インターネット公開あり-
月1回のペースで連載する心づもりでいたのですが、3月に風邪を引いたりして原稿の準備が大幅に遅れてしまいました。今後は無理せず、マイペースで継続していくつもりです。どうぞ気長におつきあいください。
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