古今東西テニス史探訪(8)日本式テニスのルール統一
明治30年代後半には社会基盤が整ってきて、教育を受ける機会も広がり、運動(スポーツ)の裾野も全国に広がってゆきます。庭球(テニス)の場合も、学校対学校の「対校戦」が増えて、ルールを統一する必要が高まってきました。今回は庭球界を牽引するようになった四大学によって、ゴムボール使用を前提とした日本独自の庭球ルールが制定される時期を探訪します。
四大校の時代に入る-高師、高商、慶應、早稲田-
幕末に開塾した慶應義塾は、1890(明治23)年に大学部を発足させています。1882(明治15)年に開校した東京専門学校は、1902(明治35)年に大学部と専門部を新設し、早稲田大学と改称しました。翌年には専門学校令が公布され、私立の大学が、官公立の大学や高等学校とほぼ同等な高等教育の一角を占めるようになります。
高等教育に進む学生も増え、両校をはじめとする私立の学校でも運動が盛んになりました。ベースボール分野では、1903(明治36)年に第1回早慶戦が行われています。テニス分野でも、1901(明治34)年に慶應義塾体育会、翌年に早稲田大学運動部に庭球部が設置されました。
東京高等師範学校のローンテニス部有志が先導して『ローンテニス』が発行されたのも、1902(明治35)年9月です。同書によれば、「今やローンテニスは欧米各国に於て非常にもてはやされて居ると同時に我邦に於ても到る所に歓迎せられ、東京では男女諸種の学校に行はれ、倶楽部では紳士青年の間にもてはやさるゝと言ふ有様である。又地方でも師範、中学、高等女学校は言ふに及ばず、普く小学校にも採用せられんとし、現に採用して居る所も少なからざる次第である」ということでした。
しかし、コートの大きさやネットの高さ、ボールの種類や品質などは様々だったようです。ポイントの数え方についても「我か國のテニス界でも未だ定まった方法はない」として、「一躰勝負と言ふものは勝たうとするのが目的であって、誰しも負けやうと思ふてやるものはないからその点数も得点を数ふるのが穏当な気がする。吾々が平生用ひているのは一回の勝を得れば之を一点としてサーヴァーの方の得点を先きにしレシィヴァーの方の得点を後に数へるのである」と続け、しかしどちらを先にするかに理由はないから「要するに紛らわしくない様に一定して居ればよい」と書き流しています。
翌1903(明治36)年10月には、東京高等商業学校庭球部による『ローンテニスの友』が発行されました。こちらはかなり実際的で、ポイントの数え方に関しては、失点を数えたり得点を数えたりして両方を混同することが多いので、むしろ「欧米の方法に従って得点を数へた方がよい様である」と提言しています。
用具についても、実際的な説明が書かれていました。ボールについては、厚いゴムのボールをフランネルで蔽ったテニス専用ボールは高価なので、「我邦で現今用ゐらるゝのは此の代用として普通のゴム球」としていました。萎んだものは「ヘソ」から空気を入れて使うこともできたとのことです。
『ローンテニスの友』の巻末には「附録」として、「市下に於けるテニス用器具販売店」が付されていて、主な販売店として美満津商店、高橋商店、安藤商店、石井商店(加島屋号)、寺本商店が紹介されていました。寺本商店については「テニス用具製造に関しては其尤も古い」と書いてありますから、1890(明治23)の第三回内国勧業博覧会に「ロンテンスバット教育体操器」(ラケット)を出品していた寺本善三郎の店でしょう。
こうして高等師範学校(高師)、高等商業学校(高商)、そして慶應義塾(慶應)や早稲田大学(早稲田)との間で対校戦が行われ、各校が開催する聯合大会(招待選手たちによる紅白試合)が盛んになると、ルールの統一が必要になってきます。
初期ローンテニスの多様なルールで混乱していたイギリスでも、ウインブルドン大会を基準にルール整理が行われ、1888(明治21)年にはLawn Tennis Associationが設立されています。また、ヨーロッパ各協会とも連携する統一ルールが模索されていました。米国ローンテニス協会も1881(明治14)年に設立され、国内統一ルールでの全米選手権大会が始まっています。
しかし日本で行われている対校戦は「軟球(ゴム球)使用のダブルスによる団体戦」という特殊事情があったので、学校対学校の対校戦が始まったばかりの明治30年代前半には対校戦ごとにルールを協定しなければなりませんでした。ようやく統一ルールが制定されたのは1905(明治38)年秋で、高師、高商、慶應、早稲田の庭球四大校が協議し、各校が部分的にアレンジして明文化しています。
《運動之友》創刊号(1906年:明治39年11月発行)に発表された「庭球要則」(以下、「四校ルール」)によれば、ルール全体は「第一章 審判」(全11条)、「第二章 ゲームニ関スル規則」(全21条)、「第三章 雑則」(全3条)で構成されていて、対校戦のための実務的な取り決めが整理されています。
条文中には「球」と書いてありますが、球についての規定は記していません。
また、コートのサイズについての規定もありませんが、「ネットノ高サハ両端ニ於テ三尺三寸乃至三尺四寸トス 但シ成ルベク水平ニ張ルコト」と記していました。つまり、1尺を約30.3㎝として計算すると両端を99.99cm~104.1㎝としてなるべく水平に張っていたということになります。
「両手ヲ同時ニ用ユルニアラザレバ便宜上何レノ手ヲ使用スルモ可トス」という条文もありました。わざわざ書いてあるということは、とっさに両手を使ってプレーする場面もあったということでしょうが、両手打ちを禁じた理由は不明です。
なお、「明治38年四校ルール」では「計算ハレシーヴ側ノ得点ヨリ数ヘ始ム」としてありましたが、その後の1907(明治40)年6月に発表された「庭球要則」(早稲田大学庭球部編『ローンテニス』掲載)には「計算はサーヴの側の失点より数え始む」としてあります。レシーブ側の得点=サーブ側の失点ですから実質的なポイント内容は同じなのに、わざわざ失点を数える減点方式に戻したのは、明治20年代からの慣行を優先したのでしょうか。
四大校の選手たちは、夏期休暇などを利用して東北や関西などに遠征し、四校ルールに基づいたゴム球のローンテニスを各地に伝えてゆきます。
女学生、小学生のテニス
イギリスでも「ローンテニスは女・子どもの遊戯」と見られることが多く、おだやかなスポーツとして楽しまれていました。日本では横浜、長崎、大阪(川口)など外国人居留地で開校したミッションスクール系で、早くからローンテニスが行われています。
東京では女子高等師範学校(女高師。現、お茶の水女子大学)と付属高等女学校、華族女学校(現、学習院女子大学)で盛んで、地方では栃木女学校、長野女学校、京都師範の女子部、千葉師範の女子部、その他各地の高等女学校に広まっていました。
1902(明治35)年に発行された『実験普通遊戯法 下巻』の著者である高橋忠次郎は、女子高等師範学校と日本体育会体操学校の教師でした。若い頃から勉学熱心な高橋は、1901(明治34)年に「日本遊戯調査会」を再興して機関誌《遊戯雑誌》を発行し、全国の体操教員の研修や情報交換の場にしています。
1901(明治34)年から翌年にかけては、欧米に留学中だった坪井玄道の後任として女子高等師範学校の体操科教師を嘱託され、坪井とも密に連絡をとっていました。また「横浜公園運動場アマチヤ倶楽部監督者吉原君の助言」も受けていたとのことです。
『実験普通遊戯法 下巻』で高橋は、ローンテニスは「貴賤貧富を論ぜず朝夕相集まりて練習」できることや、礼儀を重んじ、知見をふるって奮闘すれば心身を円満にし、社交的な感情が湧いて、教育上でも社会生活上でもおおいに益があると強調しています。
練習方法の説明も実際的で、ネットを低くして練習するときには乱暴に打ってラケットを破損しないようにと注意していました。舶来ボールについても説明していますが、一般には普通のゴム毬でよいとしています。普通のゴム毬は扁平な形で輸入され、販売前に「送気器」で空気を入れていたそうです。
ポイントの計算法については得点を数える加点法で説明し、「近来本邦の学生間には競技中其過失ありし時其過失を一点と定め」ているが、得点を数える方が「幾分か勝りたる採点法とす」としています。
なお、《遊戯雑誌 第12号》(1902:明治35年11月発行)には、各地の運動会のようすが報告されています。皇后が行啓した女高師の運動会では、6月に帰国したばかりの坪井教授が四年生を相手に「テーブル、テニス」(一名ピンポン)を披露したとも書いてありました。
まだ社会の常識や服装の制約もありましたが、女学生たちも運動(スポーツ)を楽しめる時代になってきたようです。
1906(明治39)年には、愛知県第二師範学校庭球部編『小学校の庭球』が、東京・神田の「文学同志会」より発行されています。小学生に奨励するため文章も平易にし、用語は「成るべく原語のまゝ使用する方がよいと思ふたから訳語の傍には必ず原語を添へておいた」とのことで、読みやすく、ゲームの説明も要を得て、実際的になっています。
コートの大きさも実情に応じて変更し、ネットの高さも小学生向きに低くしてよいとしてあります。さらに、小学生向きに工夫された板ラケットの紹介までしていました。
愛知県第二師範学校は、1902(明治35)年、1904(明治37)年、1905(明治38)年に来校した東京高師の選手たちから指導を受けて以来テニスが盛んになったそうですが、『小学校の庭球』での「計算法」には「カウンティング」と仮名が振ってあり、「レシーヴァーの組の得点を先に数へ、サーヴァーの組の得点を後に」して、「ゼロ、ワン、トゥー、スリー、ゲームセット」と数えるとしています。
附属小学校では「大阪で出来る鹿印のラッケット」、つまり中村商店販売のラケットを使っていたそうです。また用具類は、東京の美満津商店や横浜の商店で売っていると説明していますので、交通手段が発達して東京や大阪と近くなっていた様子がうかがわれます。
ボールについては、「我校で従来経験するところによると赤いMといふ字の商標のついた球は少し價は高いけれども使用上にもよく、又比較的永く使用することも出来て、他の種類のものよりも上等」と記されています。まだ「赤M」(あかえむ)との愛称で紹介されてはいませんが、三田土ゴムの国産ゴムボールが推奨されていました。
明治30年代中期には、ボール、ラケットなど用具選択の幅も広がり、解説書も増えて、庭球(ふりがな:テニス)は全国各地で身近に楽しまれる遊戯(スポーツ)になってゆきます。
【今回のおもな参考文献】※原本の発行順
東京高等師範学校ローンテニス部・編『ローンテニス』(1902年9月刊、金港堂)
東京高等商業学校庭球部・編纂『ローンテニスの友』(1903年刊、新橋堂)
高橋忠次郎『実験普通遊戯法 下巻』(1902年2月刊、榊原文盛堂)
運動術士『運動界之裏面』(1906年7月刊、中興館)
早稲田大学庭球部・編『ローンテニス』(1907年6月刊、彩雲閣)
針重敬喜『日本のテニス』(1931年11月刊、目黒書店)
前田愛、小木新造・編『明治大正図誌 第2巻 東京』(1978年10月刊、筑摩書房)
掛水通子「髙橋忠次郎に関する歴史的研究(1)」(1979年3月、《東京女子体育大学紀要 14(0) 6-23》)
後藤光将「日本における近代テニスルールの受容と変容に関する研究-明治16年~昭和8年(1883-1933)-」(2005年発表、平成16年度博士論文、筑波大学)
=ちょっと寄り道=
当時の運動界の状況を選手とは別の視点で伝えたのは吉岡信敬と、吉岡の口述を文章化した窪田空穂でした。
吉岡は中学時代からの野球観戦マニアで、早稲田大学に入学してからは「野次将軍」と呼ばれるほどの応援振りで知られています。窪田は歌人であるとともに、雑誌編集者でしたが、二人の共作は「運動術士」という筆名と「運動部の裏面」という題で《新古文林》に連載され、1906(明治39)年には、『運動界之裏面』という書名になって単行本化されています。
緒言には「体育といふことは時代に培まれて、近来著しき発達をした、体育は今は議論ではなく事実である、社会の耳目と称する新聞雑誌は、いずれも社会上の出来事として体育界の消息を報ずるまでとなった」と書いてあります。
内容は野球と庭球が主で、「地方にある諸君に」都下の運動界を伝えることを目的の一つとしています。随所に興味深い話題満載のなかでとくに注目すべきは、「九 庭球の大進歩」に書かれている次のエピソードです。
〈昨年の春のことである、米国シカゴ大学のチャンピオンとして有名なるメリー、フヰールド氏、我が早稲田大学の庭球(ふりがな:テニス)を観た、其日の庭球は頗る興味あるものであつたが、観終わつてメリー、フヰールド氏云へらく「日本の庭球の興味は、我々外人には善くは解りません」と。〉
「メリー、フヰールド氏」は、シカゴ大学野球部キャプテンだったFred Merrifield牧師です。1904年に来日して日本語を学びながら、早稲田大学近くの東京学院で教えていました。1905(明治38)年に早稲田大学野球部が米国遠征する前には、投球法など本場のベースボールを指導しています。
なお、野球部長として引率した安部磯雄は米国留学時代以来のテニス愛好者でクリスチャンです。メリフィールドとは親しい間柄でした。安部は、のちに政治分野での活躍ばかりでなく、日本の近代スポーツ発展に貢献しています。
メリフィールドの感じた違和感を「運動術士」は善意に解釈し、この3年ほどの間に日本のテニスが「独得の大進歩を遂げた」結果生じた違いであって、外人が「解らなければ解らぬ程、我々は得意とすべきである」と書いています。
そして、欧米のテニスと比較して第一に使用ボールの違いを挙げ、「レギユレーション、ボール」(中空の部分が極めて少なくゴムの部分が厚くて重い)では軽く打っても遠くに行ってしまうが、「ゴム球」(皮が薄く中空の部分が多いソフトボール)には縦横の変化があって工夫が必要となるとしています。つまり欧米のテニスは単純で、日本化された庭球(ふりがな:テニス)は精神的で、複雑な要素があると考えているとのことです。
第二の違いは人数で、欧米人はシングルゲームで非共同的だが、日本化された庭球では必ず二人が組んで前衛後衛の分担をする共同の精神があるとしています。
「運動術士」の意見は素人目の怪気炎ではありますが、日露戦争後に「一等国」意識が高まった当時の風潮を代表していると言えるでしょう。海外では1906(明治39)年当時、デビスカップ争奪戦にオーストラリア・ニュージーランド連合、オーストリア、フランス、米国、英国が参加して、シングルス4試合、ダブルス1試合の国地域別対抗団体戦が行われていましたが、日本ではごく一部にしか知られていなかったようです。
文明開化期に紹介された「ローンテニス」が、「庭球」と訳され、「四校ルール」として統一された結果、いつの間にか日本独自の庭球に生まれ変わっていたようです。
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