ブラジル・テニスの偉人、マリア・ブエノが癌との闘病の末に逝去

 1950年代から60年代にかけて、ウインブルドンで3度、USオープンで4度優勝し、モダン女子テニス界で先導役を務めたテニスの偉人、マリア・ブエノ(ブラジル)が口腔癌との闘病の末に亡くなった。78歳だった。

 ブエノは5月、サンパウロのノベ ドゥ ジュロ病院に入院した。病院は今週、彼女の死を認める声明文を発表したが、家族への敬意のため、詳細を明かすことを断った。

「真のテニスの偉人を失ったスポーツ界、ブラジル、そして世界にとって、非常に悲しい日です」と国際五輪委員会(IOC)はツイッターを通してメッセージを発信した。彼らは、ブエノの貢献を称えたスポーツ運営機関やプロ・テニスプレーヤーたちの一角だった。

 その優雅なプレースタイルゆえ、『テニスのバレリーナ』とあだ名されたブエノは、そのコート上でのキャリアの大部分を、プロ化時代以前に過ごした。

 彼女は1959年から1966年にかけて、総計19のグランドスラム・タイトルを獲得しており、うち7つがシングルス、11個が女子ダブルス、1つがミックスダブルスにおいてだった。彼女は、オーストラリアン・オープンとフレンチ・オープンでも、シングルス決勝に至っていた。

 ブエノは1978年に、テニス名誉の殿堂入りしており、その後もウインブルドン、USオープン、その他の大きな大会で、解説者としてブラジルのテレビに定期的に貢献していた。

 ブエノは、彼女の最初のグランドスラム・タイトルを、1959年、わずか19歳にときにウインブルドンで獲得した。

 著書『テニス百科事典』の中で、アメリカの有名テニス記者バド・コリンズは、彼女のことを、「信じられないほどバレエ的で華やかなブエノ」と表現し、「美しくボレーし、息をのむような大胆さと華々しさをもってプレーしている敏捷でしなやかなブラジル人は、ウインブルドンのシングルスで優勝した最初の南米人女性となった」と書いていた。

 この優勝のあと、ブラジルで愛され崇められたブエノは、田舎風のイメージから都会的で現代的に変わったブラジルの変貌のシンボルのひとつとなった。

 ブエノは1959年、1960年、1964年、1966年に世界1位だった。彼女は同じシーズンにウインブルドンとUSオープンの双方で優勝した最初のアメリカ人以外の選手だった。

 1966年ウインブルドン決勝でブエノを破り、のちに女子のプロテニスツアーをスタートさせる手助けをしたビリー ジーン・キング(アメリカ)は、ブエノは、男性主体のスポーツだった当時のテニス界で、より女性へ注目を呼び込んだ選手のひとりだったと言った。

「マリアは、男子が舞台の中心だった当時に、ファンの興味をとらえたビッグスターだった。彼女はそのあとにやってくる変革の地盤を作ることを助けた人だった」とキングは2009年、ブエノのウェブサイト上でコメントした。

「彼女は、その貢献を認められて然るべきである」

 ブエノは、男たちは自分のテニスのカギだったと言った。

「私は男子と一緒に練習していたからこそ、このスピードを培った。人々は、私が楽々とやってのけているように見えたというけれど、それは男子とのトレーニングからきていたのよ」とコーチを持たずにプレーしていたブエノは言った。

 コート上で覇権を振るっていた1957年から67年、ブエノは65のシングルス・タイトル、90のダブルス・タイトル、15のミックスダブルス・タイトルを獲得した。彼女は他の45大会で、準優勝していた。

 しかし、故障と病気が彼女のキャリアを短くしてしまった。彼女は現役真っ盛りだった1961年、肝炎のため、8ヵ月をベッドの上で過ごしていたのだ。

 彼女が最後にグランドスラム・タイトルを獲得したのは1968年、シングルスの最大のライバルの一角だったマーガレット・コート(オーストラリア)と組み、USオープン女子ダブルス優勝を果たしたときだった。

 ブエノとコートは、5つのグランドスラム大会決勝で対決しており、うちふたつでブエノが勝っていた。ブエノのキャリアは、1968年のオープン化時代の開始とともに、腕と脚の故障のせいで下降線を辿る。しかし、彼女は数年後にふたたびテニス界に戻り、1974年ジャパンオープンで、彼女の最後の大会優勝を遂げた。

 オフ・コートでのブエノは、ファッションにも興味を持ち、イギリス人の有名デザイナー、テッド・ティンリンが仕立てるオーダーメイドのドレスを着てプレーしていた。

 1964年、ブエノはウィンブルドンで、ティンリンがデザインしたピンクのアンダースコートと揃いのピンクのアンダーウェアが見える白いドレスを着て登場し、ファンたちを驚かせた。

「コートの片方の端から息を飲む声が聞こえて、他の端の観客は、それが何故だかわからなかった。私がコートのサイドを変えて、そちら側からサーブするまではね!」と、のちにブエノは回顧していた。

「のちに、私は(オールイングランド)クラブ・カラーに似た色のパンティを履いたのだけれど、それがクラブの委員会を激怒させ、それで彼らはオールホワイト・ルールを導入した、というわけなのよ」

 サンパウロで生まれたブエノは6歳のときにテニスを始め、11歳のときに初めて大会に出場した。そして17歳のときに、彼女はブラジルを離れてアメリカに渡った。非常に若いときにナショナル・トーナメントで優勝し、未来のスターとみなされていたにも関わらず、ブエノは自分の成就について控えめだった。

 1959年に同年の最優秀女性アスリートに選ばれたあと、彼女はAP通信に、「私はそんなによくないわ」と言っていたのだ。「私は、対戦する誰をも怖がっているの」。(C)AP(テニスマガジン)

※写真は2014年のリオ・オープンでプレゼンターを務めたマリア・ブエノ(ブラジル/右)とシングルスで優勝した奈良くるみ(安藤証券/左)
RIO DE JANEIRO, BRAZIL - FEBRUARY 23: Kurumi Nara (L) of Japan poses with brazilian former tennis player Maria Ester Bueno after winning the 2014 Rio Open women's singles final during the ATP Rio Open 2014 at Jockey Club Rio de Janeiro on February 23, 2014 in Rio de Janeiro, Brazil. (Photo by Buda Mendes/Getty Images)

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