福井烈の本音でトーク_第3回のゲストは山下泰裕さん(柔道家)~現JOCの核を担うふたりの21年前の対談〜

1999年1・2月合併号からテニスマガジンでスタートした連載「福井烈の本音でトーク」。選手として、監督として、日本テニスを牽引してきた福井さんが親交のあるゲストをお招きし、タイトルのごとく“本音でトーク”を繰り広げるという企画だ。1984年ロサンゼルス五輪で金メダルに輝いた山下泰裕さんをゲストに迎えたのは連載第3回目(1998年4月号)。山下さんは熊本、福井さんは福岡と同じ九州出身の同級生。ふたりは2019年6月、東京オリンピック・パラリンピック競技大会を一年後に控え、JOC会長と専務理事に就任した。当時40歳だったふたりの対談を再現しよう。【1998年4月号掲載|連載第3回】

山下泰裕さん(柔道家/1984年ロサンゼルス五輪金メダリスト)

やましたやすひろ1957年6月1日、熊本県生まれ。東海大学大学院卒。現役時代は全日本選手権9連覇(1977~1985年)のほか、1979、1981、1983年の世界選手権・無差別3連覇、1984年ロサンゼルス五輪無差別・優勝など、1985年の現役引退までに203連勝の偉業を達成。1984年に国民栄誉賞受賞。引退後は男子日本代表の監督などを歴任する一方、国際貢献活動にも力を入れる。2013年に日本オリンピック委員会理事に就任し、2019年6月に会長就任。全日本柔道連盟会長

福井烈プロ

ふくいつよし◎1957年6月22日、福岡県生まれ。柳川商(現柳川)高を卒業、中央大を経て、79年にプロ転向。高校時代はインターハイ3年連続3冠王と169連勝を達成。全日本選手権は過去最多7度の優勝を誇り、10年連続デ杯代表、9年連続日本ランキング1位の記録を持つ。92~96年までデ杯監督を務め、その後は日本テニス協会専務理事、日本オリンピック委員会の常務理事を務め、2019年6月に日本オリンピック委員会専務理事に就任。日本テニス協会専務理事

「相手は、自分が思うほど弱くはないけれど、自分が思うほど強くもない」ーー。この言葉を彼の著書の中に見つけたとき、私がテニスを続けてきた中で見つけたひとつの結論と重なった。それは、どんな相手にも隙はあるということ。たとえ99.9%ダメだと言われても、残りの0.1%の可能性にすべてをかける人。彼に聞きたいことはたくさんある。(福井)

「勝ちがすべて」と言うような人は、決して評価されない。日本人の柔道の心は、そんなものじゃない。(山下)

福井 お久しぶりです。今日は楽しみにしていました。僕はいつも山下さんの言葉に励まされていて、最近、感激したのは、あるテレビ番組で、「勝負の世界では死に物ぐるいが精一杯を圧倒する」とおっしゃったんです。

山下 ありました。去年の7月頃だったかな。

福井 選手は「精一杯やりました」ってよく言いますよね。僕もよく言いました。「がんばりました」「精一杯やりました」って。でもそれは当たり前で、やっぱりもうひとつそれを乗り越えた部分の“死に物ぐるい”がないと、勝負の世界では、最後に勝てないんじゃないかと思ったんです。

山下 僕は柔道に対して、ものすごい時間をかけてきました。小学校時代は遊びとして、中学校から一生懸命がんばって、そして現役をやめるまで。柔道の練習、トレーニング。あるいは柔道着を着なくても、トレーニングウェアを着なくても、対戦相手のことを考えたり、ビデオを見たり、体の手入れをしたり。そういうことを併せるとものすごい時間です。

福井 いつも柔道で頭が一杯だった。

山下 そう。そこで思ったのは、これだけ時間をかけてやっているんだから、やる以上は何としても自分の目標を達成したい。そのためにはやはり自分の命をかけるような、そういう気持ちで行かにゃいかん、と。だから大事な試合の前には、いつも家を出る前に自分の部屋をきれいに掃除したのね。

福井 うんうん(うなずく)。

山下 ホテルに泊まったときも、僕はちゃんとシャワーを浴びてきれいにして、そして部屋もきちんとして試合に臨んだ。それは、いつどこで亡くなっても悔いはない、この勝負に俺は命を張ってやってきた、そういう気持ちで部屋を出たのね。最後はやっぱり、勝負に対しての執念がほんのわずかの差を分けるっていう思いが強かったのね。

福井 命がけだったんだ…。

山下 柔道にはプロはないけれども、我々の勝負では、日本選手に比べて外国の選手の方が勝った負けたによって、その人の人生がはるかに大きく変わっていくよね。賞金、報奨金、スポンサーの問題。勝つか負けるか、1位か2位か、メダルを取るか取らないかが、その人の人生を大きく変えてしまう。だから外国の選手、特に共産圏の選手は、そこに本当に命をかけてるって僕は感じるね。

福井 ほんと、そうです。

山下 だから僕が現役を終わって選手に話したのは、それぐらいの気持ちで向かわにゃいかん、と。ただしこれは試合のときだけ燃えるんじゃだめね。柔道なら柔道、テニスならテニス、それが自分の生活の中心にあって、練習時間がたとえ3時間しかないとしても、1日を振り返ったとき、果たしてそこに力を出しきれたかどうか、そこにこだわりを持っていること、それが大切なんだよね。試合のときだけ思い込もうとしたって、体はそうはならない。

福井 どれだけ自分がそこにかけられるかが大切なんですね。

「なんで日本選手はここ一番に弱いのか」って言われた。

山下 そう。僕はいつも現役時代から、現役が終わってからも、いろんなところで「なんで日本選手はここ一番に弱いのか」って言われた。やはりこれは、日本選手は一生懸命やっている、精一杯やっている。でも外国の選手は命をかけてやっている。自分の生活をかけてやっている、死ぬほどやっている。そこの差じゃないですかって話したね。実際、死ぬことはないよね。ただそこまでの気持ちになれたら、怖いものはなくなると思う。

福井 僕は現役のとき、ホテルを出るときは、今日もこの部屋に笑顔で帰って来れますように、って出て行ったけど、でも今、聞いて、僕はまだまだ甘い。正直言って死に物ぐるいじゃなかったと思うんですよ。その気持ちがね、本当のプロフェッショナルだと思うし、ああ、現役のときに聞いときゃよかった(笑)。

山下 ただね、選手にも最近は死に物ぐるいとかいうことは言わないよね。とにかく自分の力を出しきれよ、そうしたら結果は必ずついてくる。勝っても負けても悔いがない試合をすること、それが一番、と。

福井 柔道って、特にオリンピックでは、日本国民全員が評論家になるじゃないですか。ああだこうだって(笑)。それを言われ続けた人だから、一番その重さを感じていると思うんですよ。

山下 昔、若かった頃にね、外で食事をしている横で、ファンなんだろうけど、「いやあ山下君、君はたいへんだなあ。君は負けるわけにはいかんだろう」って言われてね。ちょっとムッときたのね。なーんで俺が負けるわけにはいかんのかって。だから「なんで私が負けちゃいけないんですか」ってきいたら、「だって君が負けたらおかしいじゃないか。君は負けちゃいかんのだよ」って言われてね。となると僕はもうキレちゃって(笑)。「あなたがどこまで勝負の世界で生きて来られたかわかりませんけれど、あなたはそんなにスポーツの世界で勝つことを簡単に思っているんですか」「こっちは命をかけるような気持ちでやっているんですよ」「勝ちたいとは思うけれども、勝たにゃいかんという義務はない!」と、つい言ったりして…(笑)。

福井 わかるわかる(笑)

山下 今になって考えると、その人は言い方がよくなかっただけで、応援してるぞ、ってことをたぶん言いたかったと思うのね(笑)。僕は日本柔道を背負うことを、非常に誇りにして、励みにしていたけれども、周りからこうしたらいけない、こうしなければならないと言われるのに対してはすごい抵抗があった。なんか簡単にね、勝つように思うことに対して、現役の頃はすごい抵抗があったのね。

福井 思い出しますね。ロサンゼルス・オリンピック(1984年)。

山下 あのオリンピックは、自分の人生の中で一番緊張した試合だったんです。モントリオール・オリンピック(1976年)は補欠で終わって、モスクワ・オリンピック(1980年)はボイコットで終わって、ロサンゼルス・オリンピックでは若干ピークを過ぎていて、最後のチャンスだった。

福井 オリンピックは小さい頃からの夢だったんですよね。

山下 そう。それまでは正直な気持ち、日の丸を背負いながらやってたけれども、ロス・オリンピックでは一度も、日の丸とか、日本柔道とかいうことを思わなかったんですよ。自分のために勝ちたいっていう気持ちがすごい強かった。何でかわからないけど、僕はそう思えた自分を褒めてやりたいなあ、って。今、はやっている有森(裕子/マラソン)の、あれね(笑)。

福井 金メダルの瞬間――。あのとき表彰台で、山下さんが日の丸と重なって、涙して。みんな覚えてると思う。

山下 僕は現在、全日本チーム男子監督でしょ。そうすると、いろんなマスコミの方々から、「たいへんですね」って言われるのね。でも、人生でたいへんなことって、やりがいのあることが多いと思うのね。

福井 本当にそう。その監督という立場はどうですか。

山下 僕は現役をやめるとき、なんとか日本柔道の再起へ向けて、微力ながら尽力したいと思った。そして自分の手で世界へ向けて、強い選手を育ててみたいと思った。これが僕の第二の人生をスタートするときの目標だったんですよ。そこで全日本チーム監督という、たったひとりにしか与えられない立場を、そういうのをやりたくてもやるチャンスが与えられない人が多い中で任されて、そして日本チームを率いていける。これは幸せですよ。

福井 現役を終わって、次に監督になるのは、もう山下しかいないってみんな思ってたわけでしょ。僕らもそう思ってた。

山下 自分のやりたい道と、周りが私に期待していた道が、たまたまいっしょだったね。

福井 山下さんがそんなふうに思ってたなんて思わなかったな。

山下 僕は自分自身を性格判断すると、ものすごくマイペースなんですよ(笑)。

福井 全然見えない。

山下 わからないかなあ(笑)。

福井 僕は柔道界はよく知らないんですけど、山下さんが監督になってからのオリンピックでの活躍を見ていると、すべてに率先して行動していますよね。山下さんぐらいの実力者であれば、僕から見ると、じっとしていも周りがいろいろやってくれるんじゃないかと思ったんですけど、どうやらそうじゃない。率先して、その後ろをみんながついていって。

山下 僕は、今までやってきたものを白紙にして、一から組み立てていく中で多くのことを変えてきたから。そうすると周りはなかなか動けないんだよね。だから、まず自分が動いて、そして自分の周りを変える。自分がやらないでそれを周りにお願いしたって、思ったようにはいかないだろうし。それから自分だけがんばっても、うまくはいかないよね。本当は監督はあまり目立たない方がいい。だから、これから柔道界がもっと発展していくためには、若い力と力を合わせていかないといけないと思っています。ひとりじゃだめね。

福井 間違いなくいい方向へ向いてますよ。ところで、山下さんの大切な恩師の方の思い出を聞かせてほしいんですけど。

指導者とは、自分を磨くのとは違う。

段階ごとの指導者がうまく連携したとき、その選手はきっと強くなる。(福井)

指導者とは、自分を磨くのとは違う。他人の可能性を拡げていくもの。(山下)

山下 僕の場合は、ふたりの恩師がいます。中学1年から高校2年までを指導してくれた白石礼介先生(九州学院高校教論)。それから高校2年から現役引退までを指導してくれた佐藤宣践先生(東海大学体育学部教授)。僕の場合、高校を途中で転校したわけだから、一般的に言うと、このふたりは引き抜いた方と引き抜かれた方で、これは犬猿の仲になるでしょ。絶縁とか。でも、ふたりとも偉かった。ふたりの恩師が人間的にすばらしかった。その根底にあったのがね、この山下という人間を大きく育ててあげたいという、僕に対するすごい思いがあったんです。

福井 すてきな方たちですよね。

山下 引き抜かれた方はケンカをするんじゃなく、「お願いします」と僕を託したし、引き抜いた方も相手をものすごくたてて、大事にして。オリンピックでは「山下が優勝しました」って白石先生に報告してね。これはやはり、ひとつの理想的な育て方だと思う。

福井 山下さんが途中で高校を変わることになったとき、それはニュースになりましたよ。

山下 ふたりとも九州だったからね。インターハイの頃は、よくいっしょに紙面に出た(笑)。

福井 (僕が)福岡で、(山下さんが)熊本で。あの頃、僕はそれがどういうことかまったくわからなくて、いい環境になるんだ、ぐらいにしか思ってなかったんです。でも今、考えると、たいへんなことだったんですよね。

山下 この問題は、その選手がどうやったら伸びるかっていうことを第一に考えれば、解決していくんだと思うんですね。

福井 その人にあった指導者って、やっぱりいると思うんです。

山下 そうね。ところがね、非常に極端な言い方をすると、今の世の中そのものはエゴの世界のような気がするんです。だから譲り合い、助け合い、感謝の気持ちで、「いい選手を預けていただいてありがとうございます」「我々も一生懸命育てますから、先生も協力してやりましょう」「私はここが限界ですから、あとはお願いします」という、そういう気持ちがあるとき、その選手はきっと伸びるね。

福井 そう。初級の人たちを教えるパイオニアもいれば、トップを教える人もいる。その人たちがうまく連携したとき、初めてその選手は強くなるんじゃないかな。

山下 特に日本の場合はね、テニスはまだいいんだろうけれども、柔道は学校スポーツが始まりだから、どうしても途切れてしまうのね。だからそこに一貫性がなくて、伸びる芽も伸びなくなることがある。

福井 そういう過程を日本代表チームはうまく経てきているわけでしょ。

山下 4年間、全日本の監督を任されてますが、余裕のなかった時期もあったけれども、やはりオリンピックで勝つためには、力を合わせてやらないと勝てないと思ってます。だからアトランタ・オリンピックのときは代表が決まったら、その選手の所属の先生に全日本の合宿に来てもらって、いっしょにどうしたらいいかを考えました。それから強豪選手のビデオも、それまではナショナルコーチと選手が見ていたんですが、それを所属の先生にも渡して見てもらって、考えてもらった。こういうことは、今までの柔道界にはなかったんですね。

福井 新しい試みですね。

山下 代表選手とナショナルコーチと所属の先生と3人がよく話し合って、どうしたら世界が取れるのかということを考えていくかたち。これをしっかり確立しようと思って。

福井 コミュニケーションを取りながら、みんなで世界を目指す。

山下 通常は、所属の先生が自費で代表選手について行って、その選手を見るようになるけれども、そうじゃなくて同じ選手団として行ってもらう。そして3人が同じ課題を持って、同じような認識を持ってやっていくことが不可欠。だって所属の先生と全日本のコーチの言うことが違ったら、選手はすごい戸惑うでしょ。選手と所属との絆を大切にする。そうすればいい体制でこれから世界に向かっていけるんじゃないか、と思ってね。

福井 聞けば聞くほど理想に近い。

「育てたのは俺なのに」とか「自分一人で育てたような顔をして」とか、そういうことが僕の耳に入ってくることがあるでしょ。これは僕にとってチャンス。

山下 「育てたのは俺なのに」とか「自分一人で育てたような顔をして」とか、そういうことが僕の耳に入ってくることがあるでしょ。これは僕にとってチャンスなのね。「実はこういう話を聞いたんですが」って言って、その人とその件で腹を割って話ができるから。

福井 ああ、なるほど(笑)。

山下 本音で話し合って、そして、最後には「我々だけでは、とてもじゃないけれど勝てません」と。「だからいっしょに力を合わせて、がんばっていただけませんか」とね。

福井 これだ!(笑)。

山下 これは私だけが思ってもだめ。全日本のコーチや、みんながそう思ってないと。全日本のコーチというのは、過去の例で言うと、実績のある人がなったケースが多いです。でも、それはどうしても高圧的な部分がある。

福井 それは柔道に限らずテニスもそうです。

山下 人は、選手としての実績だけじゃないですよ。日本を代表として世界に出ていくのにふさわしい人物かどうか。「勝ちがすべて」と言うような人は、試合に勝っても評価されない。日本人が言う柔道の心はこんなものかと思われるでしょう。そういう選手を作りたくないのね。選手としてやったことは、指導者としてやっていくとき非常に生きるだろうけど、自分を磨くのとは違う。指導者は、他人の可能性を拡げていくのだから。過去の実績だけじゃない。だから現在、ナショナルコーチになる人は、1年間は特別講師。それはいつでも首を切れるようになんだよね。

福井 なるほど。

山下 柔道界はこれから厳しい中で生き残っていかなければならないんですよ。サポートスタッフ、例えばドクター、栄養、体力、メンタル・トレ、戦略などにしても、それぞれの専門ですばらしい実績を残している方々にお願いしても、柔道とは合わない人もいる。だから、そういうときもあるから特別講師にするんです。その働きができなかったときは、その人を連れてきた人に引導を渡してもらうんです。

福井 山下さんの理想の指導者は、ふたりの恩師の方々なんですね。

山下 佐藤先生ってすごいなと思ったのが、自分の教え子と議論して、その中から教わるものがあったら、それを学ぼうという気持ちがあるのね。例えば話をしていて、私と先生の意見が違う。でも先生は「そうだな、そういう考え方もあるな。よし、やってみよう」と。そこによりいいものを目指していこうという純粋な気持ちと、好奇心があったと思う。

福井 佐藤先生は僕も大好きですよ。

山下 白石先生はね。僕とはやっぱり縁は切りたくなかったと思う。転校する前、挨拶に行ったとき、先生って言うと、「ここに来てくれただけでいい。もう何も言うな」って言って。みんなの前で、みんなに向かって、「いいか、俺が今から言うことを絶対に忘れるな。泰裕は今から転校していく。でも、転校じゃない。周りはいろいろ言うけれど、もう九州レベル、高校レベルは卒業したんだ。一足早く卒業していくだけだ」と。「これから周りがいろんなことを言っても、違うよ、そうじゃないよ、とはっきり言いなさい」と言われたのね。

福井 (黙ってうなずいて)。

山下 東京に行く日には、熊本空港までみんなが送りに来てくれた。「ここにいてもしょうがないから転校したら?」っていう感じとは全然違うよね。

福井 最高の思いやりね。

山下 そのふたりの先生のつながりというのが、今の私の中にはすごい生きてます。

福井 「俺が、俺が」っていう気持ちがあったら、周りって見えないじゃないですか。でも、それがなくなったとき、初めて周りの気持ちってわかるでしょ。

山下 そうね。

福井 でもね、バリバリやっている選手に、そういう気持ちがあった方がいいかっていうと、それはちょっとわからない。やらなきゃいけないときは、なりふり構わずやらなきゃならないこともあるじゃない?

山下 あんまり若いときから物わかりがいいと、逆に魅力ない。

福井 ないでしょ。

山下 何がなんでも勝つんだ、絶対に名前を売ってやる、とかね。まず我々がほしいのは、その何かに対するエネルギーだよね。そういう気持ちがある人間が一生懸命がんばっていくうち、いろんなことに気づいたり、感じたりして、そして自分だけじゃできないってことに気づく。そして、こうやって俺がやったのには、多くの人の支えがあったと。いやあ、30歳を過ぎて、体が動かなくなってからはいろいろと感じるね(笑)。

福井 わかるわかる(笑)

何かあるとすぐに目に入るね、彼女の活躍は。

山下 ところでどう? 杉山愛ちゃんは。

福井 愛ちゃん、この間、優勝しました。

山下 昔、ハムの宣伝をいっしょにね(笑)。

福井 そうそう(笑)。彼女はもうじき10位台に入ってくるでしょ。

山下 (うれしそうに)そうですか。いつもね、何かあるとすぐ目に入るね、彼女の活躍は。ああ、がんばってるんだ、ってね。

福井 山下さん、テニスやってくださいね。

山下 そうね。現役の頃、トレーニングにテニスを取り入れたら、役に立つんじゃないかってアドバイスされてね。それで始まった。

福井 ぜひ、やりましょう。

山下 おもしろいのがね。例えば1時間トレーニングをやるでしょ。そうすると「もう走れない」「もう動けない」ってなる。あと10分走ってこいって言われても、もう足が動かない! でもね、テニスやろうかってなると動くんですよ(笑)。

福井 ほんとかなあ(笑)。

山下 プレーヤーの人はそうじゃないかもしれないけど、我々だと動くんです(笑)。もちろん疲れますけど、柔道ばっかりしてると、マンネリするでしょ。だったらランニングと同じような効果のものをやれれば、これは気分転換になるし、リフレッシュできる。

福井 今度、僕が、一生懸命走ったら取れるっていうところにボールを出しますよ(笑)。

山下 あのね、福井さん。僕は、サーブは下からしか打てないんですけど、大好きです(笑)。かみさんとね、何度かやろうと思っているけど、なかなか機会がなくて。私とやると、負けるでも思ってるのかもね(笑)。

あとがき

 山下泰裕といえば誰もが知っている、あのロサンゼルス・オリンピックでの金メダル。表彰台に上がった彼の顔がちょうど背中の日の丸の中にあって、その眼には光るものがありました。あの感動的なシーンを忘れることはありません。

 そんな偉大な人は、決して猛者ではなく、誰よりも情熱家で理論家で、本人はマイペースと自己分析しているようですが、実に気配りのきく、心優しい男です。

 彼は我々テニス界が今、目指している強化策を、柔道界ですでに実践しており、私にとってはよきお手本でもあります。そういう意味でも彼のリーダーシップぶりはたいへん勉強になりました。彼はこれからの日本スポーツ界をきっとリードしていく人だと思います。そんな彼といっしょに、私も日本のスポーツ界を少しでも盛り上げるお手伝いができればと思います。(福井烈)

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