ボルグvsマッケンロー_忘れがたき伝説の対決

80年代のテニスを知る者ならば、誰もがこの一戦を記憶する。プレースタイルから立ち振る舞い、そのすべてが対照的なふたり。『氷(アイス)対炎(ファイアー)』がぶつかり合った3時間55分の死闘、その一部始終を紐解いていく。(※原文まま、以下同)【2018年10月号掲載】

Björn Borg|PROFILE

ビヨン・ボルグ◎1956年6月6日生まれ、スウェーデン出身。74年のフレンチ・オープンで18歳の若さで優勝。その後4連覇を含む6度の戴冠を果たす。ウインブルドンでは76年から5連覇を果たした。USオープンは4度の決勝進出もすべて敗戦。83年1月に26歳の若さで引退。世界中のファンに衝撃を与えた

John McEnroe|PROFILE

ジョン・マッケンロー◎1959年2月16日生まれ、アメリカ出身。77年に全米大学チャンピオンとなり、グランドスラム初制覇は79年USオープン。80年のウインブルドン決勝はボルグに敗れるも、翌年は決勝でそのボルグを破って初制覇。全英3勝、全米4勝を挙げたレジェンド。92年に第一線から退いた

文◎木村かや子 写真◎Getty Images、BBM

 それは、一世紀に一度あるかないかという、類い稀な熱戦だった。ボルグ対マッケンロー。それはテニスの聖地、ウインブルドンの歴史書に深く刻まれた、神聖なキーワードだ。数多くの印象深き戦いが繰り返されてきたウインブルドンで、1980年決勝のビヨン・ボルグ対ジョン・マッケンローが、いまだ多くの者に、大会史上最高の名勝負とみなされている理由は、複数ある。

 第一のそれは、言うまでもなく、1-6、7-5、6-3、6-7(16)、8-6というスコアが見せる通りの、スリルに満ちた試合展開だ。届いたダイビングボレー、届かなかったそれ、オン・ザ・ラインのパッシング、運命を分けるコードボール、水面化での心理戦など、そこには考える限りのすべてがあった。しかしこの対戦を、他と一線を画したものにした要因は、それだけではない。

 それは、コート上で月夜の湖のような冷静さを維持しつつ、ストイックに勝利を追求するスウェーデンの騎士ボルグと、癇癪を起こし、喚き、コート外では羽目を外しながら、21歳の若さですでに並外れた才能を垣間見せる悪餓鬼マッケンローという、絵に描いたように対照的な、ふたりの人間のぶつかり合いでもあったのだ。

『氷(アイス)対炎(ファイアー)』などと表現されたふたりの対比は、気性からプレースタイルまで、多岐にわたった。右利きのボルグが、弧を描くようなスイングのフォアと両手打ちバックハンドから繰り出す、パワフルかつ安定性のあるトップスピンのグラウンドストロークを主な武器としていたのに対し、左利きのマッケンローは、サーブ&ボレーをベースとし、ストロークでもボレーでも、ときにただ合わせているだけのようなタッチの絶妙さでマジックショットを生み出していた。

 派生的な話だが、ボルグが当時は稀だった強いトップスピンを生み出すため、小さなラケットでストリングを80ポンドという硬さて張っていたのに対し、タッチテニスのマッケンローは、実に対照的に、その約半分の40ポンド台だった。そのため、トッププロを真似たいアマプレーヤーの間で、「硬くか、緩くか」のストリングの張りの好みに関する論議が巻き起こっていたほどだったのである。

 精悍で整った顔立ちのボルグは、デビュー当時から、そのクールな容貌で、図らずもグルーピーを生み出していた。それは前述の対戦で、ボルグがポイントを取ったとき、あるいは取りそうになったときに客席から上がる黄色い歓声、そして落としたときの悲鳴からも察することができる。女性を別にしても、イエス・キリストを思わせるその神秘的な容貌とコート内外でのカリスマで、ボルグは多くの信望者を従えていた。

 一方のマッケンローは、ボルグがにじませるストイックさや気品とは縁がないように見える、ロックが好きなニューヨーカーだ。彼の演奏するロックはお世辞にもうまいとは言えなかったが、コート上で奏でる音色には、天に祝福されたものの輝きが宿っていた。

 そしてこれはまた、当時の世界1位と2位の対決でもあった。自身、20歳で初めてウインブルドンを制し、この1980年ウインブルドンに5連覇を目指して乗り込んできたボルグは、まだ24歳の世界1位だった。そして、その顔の上にまだ子供っぽさを残していた21歳のマッケンローは、世界2位としてウインブルドンに至ったが、それに先立つ同年3月に、一時、1位の座をボルグから奪ってもいた。

 つまり、それは数年にわたり覇権を維持してきた若きナンバーワンと、その座を奪おうとのし上がってきたより若きナンバー2の、決闘だったのである。

第4セットの死闘、そして最終セットへ。

 こうした恰好の背景の中、ひとりはウインブルドン5連覇、もうひとりは初のウインブルドン決勝での初優勝を賭け、戦いの火ぶたは切って落とされる。マッケンローが第1セットを6-1で取れば、ボルグが続く2セットを取り返し、結果的にフルセットの死闘となったこの決勝だが、中でも試合の最大の山場としてみなされているのが、第4セットのタイブレークだった。

 このタイブレークに先立ち、第4セットで先にブレークを果たしたボルグは、5-4からの自分のサービスゲームで、40-15とふたつのマッチポイントを握ったが、そのチャンスをふいにしている。ストロークを最大の武器とするとはいえ、特にウインブルドンでは、自分のサービスから頻繁にネットにも出ていたボルグは、このゲームで2本のやや甘いアプローチショットとボレーの代償を払わされたのだ。

 絶体絶命のピンチに、その度胸のほどを示して見せたマッケンローは、逆にアドバンテージをとると、リターンエースを決め、自らの手で勝負をタイブレークに持ち込んでいた。

 マッケンローのスマッシュエースから始まり、一進一退で進んだこのタイブレークが、本当の意味で加熱し始めたのは、5-6とマッチポイントを握られたマッケンローが、決死のダイビングボレーでこの危機を回避し、6-6と追いついたあたりからだ。

 そのポイントでマッケンローは、サービスから前に出ると全身を伸ばしながらパッシングに飛びつき、ストップ・ボレーを決めた。届いていなければ、あるいはボレーが決まっていなければ、試合はそこで終わっていた。そしてギリギリで首の皮一枚でつないだこのポイントから、このタイブレークは過熱していく。

 ボルグはパッシングのウィナーを決め、7-6とふたたび王手をかけたが、続くポイントではボレーをミス。その次のポイントを、マッケンローがパスのウィナーでとり、逆にこのタイブレークで初となるセットポイントを握った。

 たたみかけるようにネットに詰めるマッケンローに対し、ボルグはバックハンドのパッシングをダウン・ザ・ラインに決め、ふたたびマッチポイントを奪取。しかしマッケンローは、またもパスエースで、負けることを拒むのである。

 このタイブレークの間に、ボルグは前述の3度目のマッチポイントから7度目まで、5つのマッチポイントを手にしたが、それも12-11までだった。窮地に立たされるたびに、一層大胆かつ巧妙に攻めてくるマッケンローは、上記のマッチポイントをサービス&ダッシュからのアングルボレーで危なげなく回避。次のポイントでは見事なサーブ&ボレーでボルグの動きの逆を突き、13-12とセットポイントを手にした。

 マッケンローは決めるか、決め損ねるかという形で、よくも悪くも舵をその手に握り、じりじりと波を手繰り寄せていく。15-15からのラリーで、決まったかに見えたボルグの角度のついたボレーにマッケンローが追いつき、コートの外に追い出されながらダウン・ザ・ラインにパッシングショットを決めた瞬間には、冷静な分析を常としてきた英テレビ解説者ジョン・バレットさえも「ああっ!」と思わず声を挙げた。

 マッケンローの16-15リード。そしてその約2分後、マッケンローは7度目のセットポイントを仕留め、18-16で、この有名なタイブレークをものにしていた。

 タイブレークを通してボルグは場違いに見えるほど冷静であるように見えたが、彼は後に、「僕がコート上で冷静なのは、感情がないからではない。僕がベストのパフォーマンスをするために、冷静であることが必要だったからだ」と明かしている。

 一方のマッケンローは、ボルグに比べればずっと表情が豊かだったのは間違いないにしろ、審判に暴言を吐くような真似はしなかった。近親のものによれば、マッケンローはボルグには特別な敬意を払っていたため、この試合だけでなく後にも、彼相手の試合では、極力、癇癪を抑えていたのだという。

 そしてもつれ込んだ第5セットで、試合は第2のクライマックスを迎える。通常、このような競り合いの末に第4セットを落とせば、落とした者がメンタル的に不利になると考えるのが定石だ。実際ボルグは、続くファイナルセットの自分の最初のサービスゲームで、一時は15-40と危機に立たされるが、4度ウインブルドンを制した男は崩れなかった。

 このセットはまたも6-6に至る混戦になるが、接戦が終わりに近づいたとき、違いを生んだのは、恐らくふたりのフィジカル・レベルだったと言われている。当時、マラソンランナーばりの心肺機能を誇ると言われていたボルグは、その上に、大会に出場していない週には1日5時間の練習を常とし、おそらくツアーでも有数のフィットネスレベルを誇っていた。

 一方、当時のマッケンローは、生活習慣に気を遣うようなタイプではなかっただけでなく、プレーは好きでも練習は嫌いな天才肌で、練習の代わりにダブルスをプレーしているのだと言われていた。21歳とボルグより3歳若かったとはいえ、第5セット終盤のマッケンローは、明らかにボルグより疲労に苦しめられていた。

 疲れで動きがワンテンポ遅れれば、それがミスにつながる。6-6からのボルグのサービスゲームをラブゲームで落としたマッケンローは、続く自分のサービスゲームをボレーミスから始めると、ボルグのリターンでのパスエース、そしてパスを沈められての自らのボレーミスで、15-40と8度目のマッチポイントに直面した。

 それでもマッケンローは自分のテニスに忠実に、サービスから前へ行く。そのあとには、いまや有名となったシーンが続いた。ボルグはバックのパッシングショットを決め、神に感謝するかのように芝の上の膝をつき、勝利を祝ったのである。

長くは続かなかったライバル関係

 この5度目のウインブルドン優勝で、ボルグは自らの偉大さを証明してみせた。しかし後に、この勝負がより深い意味を持つことになるのは、これがある意味で、ボルグの黄金期の〝終わりの始まり”となったからなのである。後に彼は、この試合で初めて、負けるのではないかという恐れを抱いた、と告白している。これは、ボルグとマッケンローという、ふたりのライバル関係が本格的にスタートした試合でありながら、わずか1年半しかもたなかったその関係の終焉に向け、動き出した瞬間でもあった。

 これ以降、ボルグはグランドスラム大会の決勝でマッケンローに勝てなくなり、そのことが間接的に、ボルグに26歳という若さで引退する、という決断を下させることになる。同年のUSオープン決勝で、フルセットの末マッケンローに敗れたボルグは、翌81年には、ついにウインブルドン優勝杯をマッケンローに譲り渡した。

 とどめが刺されたのは、1981年USオープン決勝での敗北だった。「USオープンに初めて非常にいい状態で臨み、いいテニスをすることができていた」と後に振り返ったボルグは、今度こそ勝てると信じて臨んだ1981年USオープン決勝で、またもマッケンローの前に頭を垂れる。そしてこれが致死の打撃となった。

 ボルグは引退後、このときのことを思い出し、「人生が終わったかのように失望した。やりたかった唯一のことは、すぐさまその場から去ることだった」と明かしている。実際、ボルグは表彰式を待たずに会場をあとにし、事実上、その足でテニスの檜舞台から去った。

「そのとき、もはやこれまでのようにテニスを楽しむことはできない、とわかったのだ」とボルグは回顧する。ボルグは82年に1大会にしか出場せず、83年初頭に引退を表明した。ショックを受けたマッケンローは留まるようボルグを説得したが、試みは不成功に終わった。結果論だが、ボルグとの戦いを楽しみ、ボルグがプレーし続けることを望んだ最たる選手が、皮肉にも自分の手で彼に退出の引導を渡してしまったのだ。

 18歳でフレンチ・オープンに優勝し、数年を全速力で駆け抜けたボルグは、彗星のように燃え尽きた。しかしだからこそ、マッケンローという好敵手の存在ゆえに生み出され、ボルグが最後の、そして最高の輝きを見せたこの1980年ウインブルドン決勝は、一層美しく人々の記憶に焼き付いているのである。

 ボルグとマッケンローは、やはり多くの点で異なった。マッケンローが戦うこと自体を楽しんでいたとしたら、ボルグの喜びは、勝利を通してしか得られないものだったのかもしれない。ふたりの最後の対戦はこの81年USオープンとなり、ふたりの対戦成績は7勝7敗のタイで終わった。

 しかし、またふたりは、ぱっと見で得る印象ほど違ってはいなかったのかもしれない。ボルグは、皆が思っていたような、聖人君主ではなかった。アイスマンなどとも呼ばれたが、ボルグの氷は、内に炎を宿していた。そしてふたりともが、違った形で天賦の才に祝福されていた。

 そしてすべての良いライバル関係がそうであるように、ボルグとマッケンローの間には、お互いへの敬意があったのである。

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