古今東西テニス史探訪(5)文明開化と「ローン、テニス」
古今東西テニス史探訪(5)文明開化と「ローン、テニス」
明治新政府が太陰暦から太陽暦に改易したのは1872(明治5)年でした。同年11月に戸籍法も施行され、初の全国調査で把握された総人口は約3400万人、男女比はほぼ同数です。
同じく1872(明治5)年にはアメリカの教育制度を参考にした「学制」が公布され、文部省が全国を大学区→中学区→小学区に分けて、それぞれに学校を設置する学区制が布かれることとなりました。小学校の教師を養成するための師範学校も東京に設立され、翌年には師範学校編の教科書として『小学読本』などが刊行されます。
『小学読本』には、アメリカの教科書『Wilson's First Reader』からの直訳が多く見られます。「棒を以て、球を打つを見たり」と書かれたページには、球を投げたり、棒で打とうとする子供たちの挿絵があり、「柔かなる球なるゆえ人に当るとも傷けることなし」としてありました。しかし、原本の『…Reader』と『…読本』を比べてみると、文章に若干の違いが見られるばかりでなく、『…Reader』の挿絵のボールは巻玉系のように見えるのに対して、『…読本』の挿絵のボールは大きくなっていて、半球を縫い合わせているように見えました。
ちなみに、日本の学生たちに初めてベースボールの手ほどきをしたのは第一大学区第一番中学の米国人教師ホーレス・ウィルソンで、1872(明治5)年のことだったそうです。第一番中学はやがて開成学校、東京開成学校と改称され、1874(明治7)年には英語科だけが分離独立して東京英語学校となります。
翌年4月、その東京英語学校の外国人教師となったのが来日したばかりの英国人青年フレデリック・W・ストレンジでした。彼は東京や横浜の外国人スポーツクラブに入り、陸上競技の各種目、フットボール、そして特にクリケットとボート競技で活躍しています。またマジェットなど同僚のアメリカ人教師に誘われたらしく、ベースボールにも参加していました。
当時「体操」という教科はあったものの、まだ実質的な内容はともなっていません。まして「スポーツ」という概念も把握されていない時代ですが、1878(明治11)年、文部省が所轄して「軍式でも撃剣でもなく、体力を補養し心気を旺盛にして学業進歩の益となる体操法。将来我が国民の心身を育成して全国の元気を振起」する「体操伝習所」が、神田区一ツ橋通町に設立されることになりました。横浜の外国人居留地に「Ladies’ Lawn Tennis and Croquet Club」が発足した年のことです。
伝習所に教師として招かれたのは米国人ジョージ・A・リーランドで、助手として教員の坪井玄道が通訳することになりました。坪井は設立当初の師範学校で指導していた米国人教師マリオン・M・スコットの通訳として補佐していた経験もあります。
医学士リーランドが教えたのは、出身のアマースト大学(アーモスト大学とも)で身につけた軽体操(普通体操)で、体力・健康に関する医学理論なども詳しく教授しています。ピアノや号令に合わせて行う軽体操は今のラジオ体操のようですし、木製の亜鈴やリングなどを手に持って行う体操は現在の新体操のようでもあります。集団で体操を行う場景は迫力があったらしく、錦絵などにも多く描かれています。
なお、リーランドの講義録には「最良なる体操は、同時に上肢下肢を運動せしむる所のものなり。打球(クリケット)・蹴鞠(フットボール)、游泳(スウィミング)、競舟(ボーチング)皆益ありて良なるものなり」と記されていますが、彼が戸外競技を直接指導したという記録は見つかっていません。体操伝習所で「東京体育会」という運動会が開催されたのも、リーランド帰国後の1884(明治17)年になってからでした。
従来、「日本へのローンテニス紹介者はリーランド」と伝えられてきましたが、その根拠を見つけることはできませんでした。それはそうとして、前回の探訪記「日本伝来、初めは外国人居留地へ」に書いたように、リーランド滞日中に横浜、東京の外国人たちがローンテニスを行っていたことは確かです。当時の横浜は文明開化のショーウィンドウになっていましたから、坪井ら伝習所関係者も参考にしていたことでしょう。
東京大学予備門(東京英語学校から改称)で英語を教えていたストレンジの首唱により、神田の同校運動場で、東京大学および大学予備門生徒による「運動会」(陸上競技会)が行われたのは、1883(明治16)年6月のことでした。米国人リーランドと英国人ストレンジの接点は不明ですが、体操伝習所は大学予備門でも体操指導をしていますから、ストレンジはそれとなく見聞きしていたことでしょう。彼は、リーランドの帰国後に、英文で『OUTDOOR GAMES』を著して出版するとともに、同書を運動会の賞品とします。各種ゲームや陸上競技(Athletic Sports)など、戸外での運動方法を紹介した同書は日本初のスポーツ紹介書となりました。
ストレンジ書の「LAWN-TENNIS」の項目では、得点を1、2、3と数えて4点先取で「ゲーム」、また3-3でデュースとなった場合は2点連取で「ゲーム」とし、6ゲーム先取による1セット・マッチの説明をしています。15、30と数えるテニス式のスコアリングよりも、ラケッツ式に1、2、3と数えて4点先取で「ゲーム」とするスコアリングで紹介しているのは、英語教師としての判断があってのことでしょう。使用ボールについての説明はありません。
さらに2年後、1885(明治18)年3月には下村泰大編輯『西洋戸外遊戯法』が出版されました。同書の「ロウン、テニース」(球打ち)項目には団扇に似た「打球器ノ図」としてラケットの図解があり、そのラケットの頭部は籐(とう)で編んであります。使用ボールについては、「毬」と「球」の記載が混在していますが、やはり詳しい説明はありません。
下村は実家のある埼玉県で器械製糸業に従事したあと、活動の場所を東京の京橋に移し、『西洋戸外遊戯法』と同年に『東京留学案内』も編輯・発行しています。そして直後の6月前後、26歳5ヵ月の下村は「遊歴」目的で米国に渡っていますが、その後の消息は不明です。
同じ頃、体操伝習所でも各種ゲームの実技を試みていました。その結果は同じく1885(明治18)年4月、坪井玄道と伝習所第1回卒業生の田中盛業によって編纂された『戸外遊戯法 一名戸外運動法』にまとめられ、教科用図書を扱う金港堂より木版で発行されています。
『戸外遊戯法』の「ローンテニス」項目では、コートの大きさは「実際ニ付テ広狭ヲ定ム」とした上で目安となる実例を示しています。勝敗を決める得点数については「随意」としながら、一例としてストレンジ書とほとんど同じ説明をしていました。なお使用ボールについては、『戸外遊戯法 一名戸外運動法』にも「球」としか書いてありません。
1886(明治19)年の教育改革で体操伝習所は廃され、各府県の師範学校体操教師を育てる役割は高等師範学校に新設された体操専修科に引き継がれることになりました。体操専修科の規則第四條によれば、体操を普通体操と兵式体操に分け、「戸外運動」は普通体操に含まれることとなります。
このとき坪井玄道は高等師範学校と、ストレンジも在籍する第一高等中学校(一高)の助教諭を兼任することとなります。1888(明治21)年には『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(1885年版初版)を改正し、『(改正)戸外遊戯法 一名戸外運動法』として出版しました。改正版は活版印刷となり、「ローン、テニス」項目のコートはダブルス用とし、挿絵は日本人の少年たちに変えています。初版と改正版の間の3年間は、時代の曲がり角だったようです。
一高で「英語学歴史及数学」を教えていたストレンジが、特に「戸外遊戯法ヲ著シタル」功績で叙勲されたのも、1888(明治21)年でした。しかし残念なことに翌年、ストレンジは心臓麻痺で急逝してしまいます。35歳の若さでした。彼は学生教職員の親睦団体として「運動会」を組織し、競漕、陸上競技などで常に正々堂々とベストを尽くす大切さを指導した人として記憶されています。
内外人の社交の場として建設された鹿鳴館に象徴されるように、明治10年代後半は文明開化期でした。さらに明治20年代中頃には留学など海外体験者の帰国も多くなり、鹿鳴館の敷地に集まってローンテニスを楽しむ人たちが増えてゆきます。1900(明治33)年前後にはイギリス公使館などのコートで楽しんでいた外国人たちと合流して、永田町に東京ローンテニス倶楽部を発足させました。コートは現在の国会議事堂衆議院側の敷地にあり、ボールは硬球(カバーされたテニス専用ゴムボール)を使用しています。
一方、明治20年代の学生たちは軟球(ゴム球)使用のローンテニスを発達させ、それぞれに独自のルールで楽しんでいます。次回は、ローンテニスが「庭球」となって普及していく時代を探訪することにしましょう。
【今回の主な参考文献】
※原本の発行順
※原本の旧字は新字に改めて引用
・F.W.Strange『OUTDOOR GAMES』(1883年刊、Z.P.MARUYA & Co.=現在の丸善雄松堂株式会社)※「野球殿堂博物館」でインターネット公開あり
・下村泰大編輯『西洋戸外遊戯法』(1885年刊、泰盛館)※「国会図書館」でインターネット公開あり
・坪井玄道・田中盛業・編纂『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(初版は1885年刊、改正版は1888年刊、金港堂)※ともに「国会図書館」でインターネット公開あり
・今村義雄『学校体育の父 リーランド博士』(1968年刊、不昧堂書店)
・木下秀明『スポーツの近代日本史』(1970年刊、杏林新書)
・渡辺融「F. W. ストレンジ考」(《体育学紀要 第7号》1973年3月発行、所収)
・山住正己『日本教育小史-近・現代-』(1987年刊、岩波新書)
・佐山和夫『明治五年のプレーボール』(2002年刊、日本放送出版協会)
・高橋孝蔵『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』(2012年刊、小学館新書)
=ちょっと寄り道=
任期を終えたリーランドは、1881(明治14)年7月に帰国することになります。6月14日にはリーランドを囲んで送別会が行われ、離日後の7月14日には第1回21名が伝習所卒業証書を授与されました。
リーランドの送別会の写真は、伝習所第1回卒業生の写真でもあります。《アサヒスポーツ》(1931年1月15日号、34ページ)に掲載された写真の前列中央には、リーランドとともに若き日の坪井も写っていました。
ところが、その原写真の所在が不明になっています。《アサヒスポーツ》掲載記事によれば写真は「大阪女子商業学校高橋守義氏所蔵」となっていますが、キャプションや記事には間違いも含まれています。原写真を探し出せば、より正確な情報を得られることでしょう。
2020年東京オリンピック・パラリンピックの前に原写真の新たな手がかり情報が得られれば、おそらく開催されるであろう「日本スポーツ史展」もさらに充実するに違いありません。どうぞ所在情報をお寄せください。
◎所在情報の連絡先(岡田邦子 e-mail)
netpost215@nifty.com
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