鮎川真奈(エームサービス)にとってテニスは常に、日々の生活の一部として、すぐそばにあるものだった。

 祖父母が経営するテニスクラブは、幼き日の彼女の遊び場である。そこではいつもレッスンや試合が行われていて、ときには、当時の日本のトッププロが集う国際大会も開かれていた。

 クラブの経営者の孫娘は、それら大会のマスコット的存在でもあったのだろう。選手たちは、小さな手にラケットを抱えボールを追う女の子の遊び相手をつとめ、女の子は表彰式で、選手にトロフィーなどを手渡す大役を担った。そのトロフィーの輝きが……そして観客の応援と拍手を浴びながら戦う選手たちの姿が、いつしか彼女の目には、きらびやかな憧れの存在として映る。

「私も、あの場所に立ちたい!」

 母親からは「穏やかな環境で、ピアノでも習って……」と望まれていた少女は、こうして自らの意志でラケットを握る。まだ、小学校に上がるか上がらないかの頃だった。

 鮎川にとって幸か、あるいは不運だったのは、彼女がテニスを本格的に始めたその頃に、全国の各地でも、同じようにテニスに魅せられた少女たちが多数いた事だ。

 穂積絵莉(橋本総業ホールディングス)や澤柳璃子(リンクス・エステート)、日比野菜緒(LuLuLun)に加藤未唯(ザイマックス)、尾﨑里紗(江崎グリコ)、そして二宮真琴(橋本総業ホールディングス)……関東や全国大会で頻繁に顔を合わせた同じ歳の少女たちは、その後も常に、彼女の前に立ちはだかる。

 10代後半の頃は、それら同期になかなか勝てず、プロかアメリカの大学進学かで悩みもした。そこで、自身への最終テストのように「この大会で準決勝以上にいけなかったら、プロは諦めよう」と課して挑んだ18歳以下の全日本選手権で、ベスト4に入る。

 このとき、彼女の進む道は決まった。

 プロ転向後、成績では先をゆく同期の背を見ながら、焦りを感じたこともあったという。比べられることに対する、不快感もあっただろう。

 それでも「この年代にいる以上、そういう見方は絶対にされる」と受け入れ、今は「コンスタントに結果を出すという意味では負けているが、直接対決では十分にやれる」との自信も深めている。昨年春に膝の前十字靭帯を痛め4ヵ月間ツアーを離れたが、その間、祖父母のアカデミーで高校生たちを指導したことが、一つの転機にもなった。

「同じことを教えても、すぐ出来る子と、そうでない子がいる。同じことを伝えようと思っても、言い方によって受け止められ方が大きく異なりもする」

 教える側に立つことで獲得できた、新たな視座――それらが、自身がコートに戻ったときには、教わる者として役に立つ。コーチから言われる言葉を、咀嚼し真意を理解できるようになった。「気持ちのアップダウンをなくす」という課題も、コーチたちとの話し合いを重ねることで克服しつつある。その成果が、先週の牧之原大会に続く、今大会でのベスト4。ただ今の鮎川は、ここで足を止めるつもりはない。

「先週は、初めてITF2.5万ドルでベスト4に入ったので、少しホッとしてしまった。でも今回は、全然満足していない」

 初の決勝進出を目指し、準決勝に挑む鮎川。そこで彼女を待つのは、同期で親友でもある、澤柳である。

レポート◎内田暁(大会オフィシャルライター)

※写真は鮎川真奈(エームサービス)
写真提供◎浜松ウイメンズオープン実行委員会
撮影◎てらおよしのぶ

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