広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載第13回_第3章スポーツマンシップを語る(1) 岡田武史×平尾誠二「世界で戦うために」
あなたはスポーツマンシップの意味を答えられますか? 誰もが知っているようで知らないスポーツの本質を物語る言葉「スポーツマンシップ」。このキーワードを広瀬一郎氏は著書『スポーツマンシップを考える』の中で解明しています。スポーツにおける「真剣さ」と「遊び心」の調和の大切さを世に問う指導者必読書。これは私たちテニスマガジン、そしてテニマガ・テニス部がもっとも大切にしているものでもあります。テニスを愛するすべての人々、プレーするすべての人々へ届けたいーー。本書はA5判全184ページです。複数回に分け、すべてを掲載いたします。(ベースボール・マガジン社 テニスマガジン編集部)
「世界と戦うために」
岡田武史(元サッカー日本代表監督)
平尾誠二(元ラグビー日本代表監督)
司会/広瀬一郎
平尾誠二
京都府出身。中学でラグビーを始め、伏見工業高校3年の時、全国高校ラグピーフットボール大会で優勝。同志社大学入学後、史上最年少(19歳4ヵ月)で日本代表に選ばれる。全国大学選手権で3連覇を果たし、卒業後1年間の英国留学を経て1986年神戸製鋼に入社。1989年以後、日本選手権大会7連覇を果たす。W杯に4大会連続で出場し、第4回W杯では代表監督を務めた。(2016年10月逝去)
岡田武史
大阪府出身。天王寺高校3年のとき、サッカーの日本ユース代表に選ばれる。早稲田大学を卒業後古河電工(現、ジェフ市原)に入社し、日本代表としてロサンゼルス五輪予選、メキシコW杯予選などに出場した。1990年に現役を引退し、ドイツヘコーチ留学。1998年のフランスW杯では、日本代表監督を務め、その後はJリーグ・コ ンサドーレ札幌の監督としても活躍。
この対談の目的|世界で戦うメンタリティ
広瀬 スポーツマンシップという言業が出てくると、指導者の側から「きれいごとはわかるんだけど現場は違うんですよ」という話が必ず返ってきます。特に格闘技に関係する人からは、辛らつに「格闘技でスポーツマンシップっていうのは、敗者の言い訳なんですよ」ということを言われたことがありました。それを一概には否定しません。スポーツマンシップを排他的で絶対的な、宗教の教義のようなものにするつもりはないからです。
そんなときは、スポーツマンシップを身につけると良い人になるということと、そもそもスポーツマンシップがなければゲームは成立しないということを伝えています。
さて、1998年に行われたサッカーのフランス・ワールドカップ後に、お二人の対談がありましたね(読売新聞掲載)。それを聞いて、精神的な部分が、世界のトップと戦うときに重要だなと思ったんです。スポーツマシンシップというと一言ですが、実は自主性や協調性などいろいろな側面があります。トップと戦うときに、体が大きいとか、骨が太いとか、足が速いとか、ジャンプカがあるとか体力的なことだけじゃなくて、メンタル的なものがとても重要だ、ということを現場で戦ってきたお二人がどう感じているのかを、お話しいただければと思います。
個人の判断力について
広瀬 岡田さんが代表監督をされた1998年当時、日本の指導方針として何が一番足りなかったですか。
岡田 「個人の判断能力」です。言われたことはきちんとできるけど、個々人の判断能力が劣っているという話をあのとき(1998年ワールドカップ後の対談)したと思います。それは現実に感じたものでしたが、コンサドーレ札幌で監督としていろいろやってみて、それも指導によってある程度変わるんだなと思いました。当時は社会体制のせいにしたりして、協会に出すレポートにも「学校教育の問題も含まれています」って書いていましたが。
例えば、僕がコンサドーレの監督に就任して1年目は、「元日本代表監督が来た」ということでコンサドーレの選手はみんなロボットみたいでした。僕の言い方がきついし、試合が残り10分ぐらいになると、みんな僕の顔をみながら試合をやるんです。0-1で負けているのに「僕、岡田さんに言われた役割やってます」って感じで。それで、2年目から話し方も変えたし、とにかく我慢するようにして正解を与えないようにしました。そしたら変わったよね。
自分たちで考える
広瀬 正解を与えないように、我慢してたんですか。
岡田 例えばコーナーキックのとき、1年目は僕が全部指示を出してたんです。2年目はゴールキーパーにお前がやれって任せたんですよ。そしたら、最初はどうやっていいかわからなくて、皆で相談していたんです。
それで黙って見てると、これでは絶対ニアサイド(コーナーに近いほう)でやられるなってわかるんですよ。でも、そのときには何も言わずに我慢する。もちろんやられる。それから「やっぱりここやられるやろ。それで、こうしたらどや?」って言って、そこに選手を置くようにする。そういう積み重ねでね。
あるキーパーが、1年目が終わったとき、ゴールキーパーコーチのハーフナー・ディドを代えてくれって言ってきたんです。「ディドコーチはサッカーを教えるだけで、あとは突き放される感じがする」と。でも僕は「いいコーチだと思っているんで代えない。お前の方が変わっていかないかん」と言いました。その選手は2年目が終わったとき、「岡田さんが言っていたことがわかりました。自分でいろんなことができるようになって自信がついた」というふうに言いましたからね。
判断力を要する練習の不足
広瀬 それで指導力でカバーできると感じたのですね。2年目にちゃんと結果を残したわけですから、説得力ありますね(注:2年目、コンサドーレ札幌は待望のJ1昇格)。平尾さんはどうですか。
平尾 岡田さんが初めに言ったように、日本人の「個人の判断力」というものは、あまりレベルが高くないと思います。技術トレーニングをしているときに、パスとかキックとかコンタクトするとかタックルするとか、そういう練習はたくさんしますが、それに判断力というものを継ぎ足した練習は、あまりしないんですね。あるケースの中で、「はい、あいつにタックルに行って」という練習が多いわけですよ。パスにしても、結局相手がいる中でいつやるのかという判断が大変重要なんです。
けれども日本の練習というのは、多くの場合それよりも反復練習をやるケースが多い。それが、しすぎの感があって、タイミングだとか状況を見ていつそれを発揮するかという、そういう意味での技術が本当の技術なんですけどね。そのレベルがあまり高くなかったですね。
テクニックとスキルの違い
広瀬 判断力も含めて技術ってことですね?
平尾 判断力がともなわなければ、本当はスキルって言わないんですね。パスだけ、キックだけ、タックルだけでは動作にしか過ぎないということです。
岡田 テクニックとスキルの違いですね。
広瀬 テクニックとスキルの違いですか。ではテクニックとは何ですか?
平尾 テクニックというのは型でしょ。動作そのものですよね、パスとかキックとか。
岡田 キックをきちっと蹴れる。でも試合中、どこで蹴っていいかわからん。これはテクニックはあるけど、スキルじゃない。
平尾 ラグビーではボールを投げるという技術のトレーニングをします。大事なのはいつそれをやれるかということ。どういう状況でこのパスが出せるかが一番重要な能力であり要素です。最終的にはそこに落とし込まなければなりません。
パスっていわゆる“間”の勝負でしょ。われわれの勝負ですと、間が非常に重要なんです。で、間を取るということが練習の中で必要になってくるんですよ。多分、これは「人との間」と一緒で、大なり小なり体験して実感していかないと、なかなかつかめない。
そうすると、ミスをうまく許容していきながら、つまり初めはうまくパスを出すタイミングがとれないんだから、叱るのではなく、適切なうまいアドバイスをしていきながら、しっかりした“間”を自分の中で取れるように指導していかなければならないと思います。これが日本の指導者は、あまり得意でない感じがします。
義務でやるか、権利と感じるか
広瀬 平尾さんが現役のとき、イギリスに留学していましたね。そこで練習しているときに、体が強いというフィジカルなもの以外に、練習の仕方やものの考え方に関してすごい差があるなという、一種のカルチャーショックみたいなものはなかったですか。
平尾 それはたくさんありました。たとえば練習の仕方一つにしても、日本のスポーツの場合は学校体育からスタートしているケースが多いので、義務教育としてのスポーツですから義務感があるんですよ。権利と義務って大きな違いで、彼ら外国人選手はスポーツを権利としてやっている。僕らは何かどっかで義務感めいたものがあって、「練習イヤやなー」って思ったりする。でも彼らはそんなこと一切なくて権利としてやっているから、もうすごいんですよ。端的に言うと、義務と権利、スポーツにおけるわれわれの受け取り方、その違いが感じられたんですね。
岡田 その練習を毎日やってたらどうやろ。
平尾 ちよっとわからないくらい違うでしょうね。
パターンと独創性のバランス
広瀬 なるほど。話は変わりますが、どのような教え方をすれば選手のイマジネーションを豊かにしていけると思いますか?
岡田 それは、(指導者が)教えられることじゃないと思う。その子の生まれた環様とか、育ってきた環境、親の性格だとか、ただ、みんながイマジネーション豊かだったら、チームはまとまらないですよ。だから、働き蜂みたいな選手も必要だし。
平尾 どのチーム競技も、プレーヤー全員が練習の中で同じピクチャーを描けるようにならないと、うまくことが運ばない。効率性の問題です。同じ絵が描けてたら、次の目的地まで行くのに非常に短い距離でボールを運べて、ムダな動きがなくなる。
ボールがAからBに行って端まで回すぞ、と。そこを基点にゲームを組み立てていくというのがわかっていれば、目的地までのルート、組み立てがわかっていて直線的に動けますから、運動量的にも効率がいいわけです。そういうのがわかっていると非常に効率が良いゲームができる。
ただ、ラグビーではパターンの練習をしすぎの感があったので、そのパターンがちょっと壊れたりとか、通用しなくなったら、にっちもさっちもいかないというのが、かつての日本でした。今は、ちょっと変わってきていますけど。
広瀬 イメージを持ってもそれがパターン化すれば、パターンからはずれたときに、次のイメージがわかないわけだから、普段から例外に対応するという練習が必要なんじゃないでしょうか。
岡田 結局はバランスなんですよ。まったくパターンの練習をやらなかったら、どこをよりどころにしたらいいかわからないし、やりすぎると硬直して完全に頭が固くなってくるし。そこはチームを見ながらバランスとらないと。
広瀬 往々にして、今までの日本では教えすぎていたのでしょうか。
平尾 ちょっと遊びの部分がないといけない。やっぱり、個人の裁量の中で判断する部分って必要じゃないですか。そこまで細かく指示しすぎる感が日本のコーチングにはある。大筋とか、本質に関しては理解していないといけないですが、その方法論に関してはいろんなやり方がある。細かく指示しすぎると、結局大きな本質が見えずに、そこからはみ出せなくなってくるんですね。サッカーやラグビーのように、流れの中でプレーするスポーツでそこを規定してしまうと、流れが作れないという問題が生じてしまう。
ゴメンで終わらせずにイメージを共有する
広瀬 どうやってイメージをわかせるかということがポイントの一つ目でしたが、二つ目はそのイメージをどうやって共有するかということになります。つまり伝逹力というか、コミュニケーションカ、それは必ずしも言語である必要はないのかもしれないけれど、従来の日本の選手と指導者の間では言語による伝達力が貧弱。寡黙を美徳としているところがあって、言語に長けてるやつは、今ひとつ信用ならないという風潮があった。
例えば岡田さんの次にサッカーの日本代表監督に就任したフィリップ・トルシエ監督が「もっとお前らアピールしろ」と選手に言うのもコミュニケーション力です。
また、チームのリーダーが他の選手に対して指示を出し、それを受けた選手がどうやってフィードバックするか、みたいなコミュニケーション力が日本の選手に足りてないと感じたことはありますか。
岡田 それはありますよ。パスが合わなくて、「じゃあ、お前はどうしてほしかったんだ?」、「今のはこっちに出してほしかった」という会話が必要なときに、日本の選手はゴメン、ゴメンで終わっちゃうことが多い。具体的な言語表現でお互い要求し合うことで互いのイメージの違いを修正しないと、同じピクチャーを描けません。
平尾 確かに特徴を認め合うっていうのは非常に大事で、パスでも人によっては、普通よりも前目にくれという選手もいるんですよ。そいつはものすごく体に自信あるから、コンタクトするのが怖くないんですね。また、ボールをもらったときに加速が大事というのもいれば、「あんまり前に放ってくれるな。俺はスペースがほしいんや。受けてから抜きたい」というのもいる。最後のタイプはあんまり体がでかくなくて、結構スピードがある選手が多い。これがわかっているのとわかっていないのとで、ものすごく違ってくるんですよ。
まず多様性を認める
岡田 結局、特徴をお互いにわかり合って、今いるメンバーのベストのパフォーマンスを出すのがチーム力だから。平尾さんが言ったように、パーフェクトな選手というのはいないんですよ。それでも個々のプレーヤーのいい特徴ばかりを寄せ集めたら、チームのパフォーマンスは上がるわけだから、そのためにはお互いの特徴を知らないとね。
広瀬 三つ目のポイントはそこだと思う。多様性を認めるという問題。一般的な日本の集団は基本的に共同体的で、同じ人が集まっているという前提だから、「言わなくていい」ところがあるんだけど、実は個人にはいろんな多様性があって、チームを作るときにも、どの選手を組み合わせるとベストか、という間題がありますよね。
岡田 コンサドーレに行って1年目、右ハーフで攻撃はすごく好きでなかなかいいけど、ディフェンスがさっぱりの選手がいた。彼の特別ビデオを作って、残して守備のトレーニングをしたけど全然ダメ。指導者としてずるいかなとも思ったんだけど、2年目はもうあきらめて、こいつらを育てようなんて思わんで、こいつらのいいとこだけ取ろうと思った。それで組み合わせていったら、いきいきして、めちゃめちゃようなったんですよ。
MTM (マッチ・トレーニング・マッチ)って習うでしょ、ゲームで悪いところを分析して、トレーニングで問題点を修正する、という。これは嘘ですよ。いいところから入らないと、修正から入ったらチームも選手も伸びない。これは監督をしてみての実感ですね。選手を育てないで、いいとこだけ使って結果をもらおうというのは、指導者としてずるいかなって思ったんだけど、でも、その方が選手は伸びる。
広瀬 ある意味で多様性を認め、能力的にも違っていいし、違っていることを前提にお互いの特徴を理解し合う、ということをやらないとスポーツは伸びないってことですね。
平尾 競技にもよりますけどサッカーやラグビーなどゴールを目指す型の競技ってそれは大事。できるだけ意図的にそういうものを作り上げることが戦略だと思っています。
タックルがへたでも、ボールを持ったらめちゃめちゃ速い選手がいる。持っとったら時々いいプレーするけど、ディフェンスに回ったらタックルしても抜かれまくる。そういう選手には「だったらできるだけタックル行かせないようにしようか」とか、「ボール持つ場面を増やそうか」という対応が必要やと思うんですよ。逆の選手もいるので、それらをある程度意図的に組み合わせていけば、かなり効果は上がると思います。
リスペクトしてプラスの評価を
岡田 だいたい、スランプに陥る選手を見ていると、自分が得意じゃないことをやろうとして、失敗してどんどんドツボにはまっていくケースが多い。自分がなぜ活きてるのかというのを理解していかないと、リズムを崩してしまうんよ。特にディフェンダーの選手はまじめな選手が多くて、フォワードにもっといいパス出せよっていわれると、いいパス出そう、いいパスを出そうってムキになる。「いいパス出そう」から入っていったら、ドツボに入るって。そういう選手おらん?
平尾 いますよね。頭で意識しないで感覚でやれているときはいいプレーをする。それを変に意識したりすると、力が出なかったり、おかしくなったりすることがよくありますよね。やっぱりミスして怒られたりすると、注意力がそこに行きすぎてあまりよくなかったりするケースがある。コーチは極力それを避けた方がいいですよね。
広瀬 スポーツマンシップのポイントは、結局リスペクト(尊重)だと思うんですよ。今の話だと、選手に対してちゃんとリスペク卜があって、こいつはこういうやつなんだっていうことをちゃんと理解してあげることが重要なスタートなんですね。選手間でも、あいつはこういうやつなんだって理解する。評価して、尊重してあげるというプラス評価のところが、チーム力をあげる上でものすごく大事ですね。
岡田 僕が監督をしているときのコンサドーレ札幌は、他のチームでは芽が出なかった選手が多かったんですよ。だから、自分の良いところが認められると本当にいきいきしてきて、他もよくなってくる。
イマジネーション=対応する力
広瀬 現実問題、日本のスポーツ界で、中学生、高校生ぐらいでそういうことがわかって、そういう教え方をしなければならないというのは共通理解が得られているのでしょうか。
平尾 ラグビーは、一貫性というか、この時期にこういうことを教えていくという、段階別の教え方について共通したものが確立してない。たとえば、判断力は20歳を越えたら吸収力が低くなる。そしたら、もっと早い時期に“ゲーム”をメインに教えたほうがいい。
オーストラリアのコーチを見ていると、練習の仕方がうまいなと思う。ものすごく多様性がある。たとえば、ボールを落としたらそこからサッカーをやるんですよ。これ、最初は何か遊びに見えるんですけど、状況に応じて思考を変えて対応するというか、そのルールに準じてまた進めていくってことが意外と苦手なんですよ、日本のプレーヤーは。
広瀬 Aという問題にはB、そしてCという問題にはDという対応ではなくて、発生したできごとにその場で対応するという“対応力”そのものをどうやって育てるかはすごく重要です。
平尾 基本的にそれは、イマジネーションの話にかかわる問題ですね。こんなプレーここでするかっていうような、驚きを感じさせるのは、いろんな状況にどう対応してプレーするかにかかっています。
広瀬 イマジネーションを育てるにはトレーニングが必要なんじゃないでしょうか。
岡田 いや、トレーニングじゃなくて、環境を与えるだけなんですよ。それで、選手がマラドーナのプレーなんかを見て得たイメージから、自分でこれやってみようと思うことが重要なんだと思う。
自由と強制のさじ加減が指導者の責任
広瀬 スポーツの世界でも、イマジネーションのある、多様な選手を育てようという提案に対しては、まずNOとは言われない。でも、そのためにどうするのかというと、実践方法論がともないません。
岡田 いろんな実践のアイデアが出せないからね。今の教育改革でも総合学習で強制せずに「自分で考えて、自分で見つけて、自分で」とか言っているけども、そんなことできるわけがない。人間なんて弱いもので、心理的限界と肉体的限界がある。どれだけきつい練習に自分を追い込むかといっても、追い込みきれるやつなんて、めったにおらん。ある程度強制も必要なんですよ。
昔は型にはめすぎた教育してたから、それじゃダメ、ひらめきのある人間が育たないから、今度は全部自由にしよう…。違うんですよ。絶対強制することもないとダメなんですよ。何でも好きなように自由にとか、そんなことしたら子供はダメになりますよ。
広瀬 バランスは、指導者の判断力によると思いますが、指導者はどっちかに決めてしまえば楽ですよね。そうじゃなくて、「自由奔放」と「基本の型」のバランスだよ、と言った瞬間にそのバランスは指導者の責任になってくる。
平尾 でも、そういうさじ加減が重要じゃないですか。個人個人をちゃんと見抜いて、ちゃんと手当てしていくということができなかったら、これからはいいコーチにはなれないですよ。
スポーツはなぜ感動するか
広瀬 指導者が独自にバランスを考えて判断して、それが現実に結果となって成功すると、面白くてこたえられないでしょうね。
話は変わりますが、スポーツと自分とのかかわりの一般論を話していただけますか。スポーツをしていて良かったこととか。
岡田 スポーツは好き。なぜかというと、極論かもしれないけど、喜びとか感動とかは、何か目標に向かって努力したり、苦しいことがあったり悔しいことがあった後、勝ち得るから感動が起こるんだと思うんですよ。ところがね、何もなく淡々と暮らしていって、そんな中で感動なんてなかなか味わえない。満たされすぎるとダメだね。
広瀬 欠落感がないのは問題ですね。
岡田 そう。苦しいこととか、悔しいこととかを自分で作らないと。今は普通に生きていけといえば普通に生きていける世の中です。だから「うざってーよな」、「かったりーよな」、「どうせやったってよー」とかそういう言葉が並ぶわけですよ。昔だったら、そんなにのうのうとしてたら、食っていけないでしょ。今だったらフリーターやろうが何やろうが、会社に勤めなくても適当に生きていける。そういう社会になって、自分でどうしたら感動を得るのかということは重大なこと。そういうために、スポーツをやるんだよね。
広瀬 確かに、1997年のジョホールバルの勝利より喜んだことないな。40年以上生きてきて(注;サッカーのワールドカップ・フランス大会アジア地区最終予選、日本はマレーシアのジョホールバルでイランを下し、初めて本大会出場を決めた)。
スポーツの教育的価値
平尾 個人差もあると思うんだけど、岡田さんの言うことにはものすごい共感できます。僕の持論ですけど、「できなかったことができるようになる」。これが実感できるのか、スポーツの教育的価値として一番高いところだと思います。
広瀬 (サッカー解説者の)加藤久さんも同じことを言ってますね。到達すべき目標があまりにも遠いと、途中で萎えちゃうけど、スポーツはとりあえず実感するレベルがそれぞれに与えられる。
平尾 それは、日本代表になるレベルの選手もおれば、町内のチームでレギュラーになる選手もおれば、県大会1回戦突破という選手もおる。それはそれでいいんです。とりあえず、ベクトルは上向きですから。そこに向かって、努力するということが大事。自発的に取り組んでいって、それが成果として現れるということに意味がある。それがものすごくわかりやすいんだよね。しかも体を使うので実感があります。
“エンジョイ”をもう一度考える
広瀬 実感のない24時間満たされた生活より、どこかで飢餓感があっても、何か実感を持ちたいね。痛いでもいいし、ダメでもいいし、悔しいでもいい。行動と感覚の間のリアリティが重要。
岡田 ただ、ベースとしては楽しいという気持ちがないとダメなんだよね。
広瀬 そう。だから自主的にやりたいことを、やればいいんですよ。
平尾 エンジョイっていう言葉、日本の人たちはちょっと認識が違うと思う。えらい昔ですけど、イギリス人のスタンドオフが神戸製鋼におった。彼に「タックルとか痛くないのか」って聞いたところ、そいつが言うには「エンジョイの中にそれが含まれてるんだ」って言ってましてね。われわれの中では、楽して楽しいことがエンジョイだっていう簡単に思ってしまうけれども…。
広瀬 “楽“と“楽しい”って同じ字なんですよね。
平尾 一般的に楽することが楽しいって感じあるでしょ。でもね、スポーツはちよっと違う。スポーツをやった人は、何となくこの意味合いがわかるんですよ。ところがね、全然知らない人が、メディアで話した言葉だけ拾って聞いた場合、「何てこいつはだらしない」とか、「不謹慎な」という感覚になってしまう。ここにはものすごいとらえ方の違いがあるんじゃないかなと思いますね。
岡田 「楽しみたい」と小野伸二選手(オランダ、フェィエノールト所属)も言う。でもね、本当に言いたいところは「楽しみたい」じゃなくてね、闘争の本質というか、「絶対勝ってやる」という気持ちが前提だと思うんだよね。あれは表現の仕方がちょっと悪いだけで、言っている意味合いはよくわかるよ。
平尾 わかりますね。小野君が「ゲームを楽しむんだ」と言う。だけど、極度の緊張の中に自分を追い込んでゲームをするとね、新しい自己との出会いがそこにある。
プレーの感度がいいかどうか
岡田 境地、と言ったらえらそうだけれどもね。何かに気づくんだよね。絶対勝ってやる、よし勝つぞとか、そういう気持ちがないと絶対勝てないけど、これによって過緊張になったり、勝たなきゃ、と義務感から力んだりするとだめ。
でもどんなスポーツでも最高のパフォーマンスというのは、リラックスした自然体から出てくる。どこかに力が入っていたら、絶対いいパフォーマンスはできない。精神的には研ぎ澄まされているけれども、体はリラックスしている状態。これが彼らの言う楽しむだと思うんだよね。
平尾 僕はいいプレーに対して「感度がいい」とよく言うんですけど、感度が良くないといろんなことに気づかないんです。
広瀬 感度というのは、インナーな精神的なものでしょ。ところが、ホルモンとかのバランスが良くないと、感覚は鈍る。
文明論の話になるんだけど、覇権国家の指導者階級は必ず貴族化する。そうすると有閑階級になって働かなくなる。体を動かさなくても食っていけるっていうのが有閑階級の象徴だから。そうなると、例えば唐の時代でも(北方から)匈奴が来たって情報が入っても、感度が鈍ってるからすぐに対応ができない。唯一、大英帝国は貴族に生産とは関係ない体を動かすものを留保した。それがスポーツ。だから今でもイギリスは大丈夫だっていう話を聞いて、なるほどねと思いました。
スポーツマンシップについて真剣に考える
広瀬 ここで核心の話に入ります。お二人とも、スポーツマンシップという言葉は知ってると思うんだけれども、それに関してちゃんとした説明を聞いたことはありますか。自分からスポーツマンシップという言葉を使ったことはありますか。あればどういうときにその言葉を使ったでしょうか。
岡田 ないかなー。
平尾 (広瀬さんが)このスポーツマンシップという言葉に対して問題提起されたことはいいな、と僕は思ったんですよ。というのは、僕らも深くこのことについて考えたことがなかったから。自分の中でなんとなく概念としてはあるんですね、スポーツマンシップってこういうものだという。
逆にスポーツマンシップって、都合よく使われてきた言葉でもあるんですよね。何かあったときに「お前スポーツマンだろ」とか、管理するうえでうまく使われてきた言葉という意味で。でも僕自身がプレーヤーに対して「お前、スポーツマンシップに則ってナントカ」とか、言わないですよ。僕がスポーツマンシップっていう言葉を使ったのは、昔ソフトボール大会の選手宣誓をしたときぐらいです。
広瀬 そうか。「スポーツマンシップに則って…」そういう宜誓をしますね。
平尾 多いですよね。でも、最近なくなってきてますけど。甲子園での宣誓も中身は変わってきてますが、最近までは固い内容でした。
広瀬 スポーツマンシップというのは、型にはまったというイメージがあるのかな。
平尾 どうかな。でも、スポーツマンシップと正々堂々とっていうのは、セットになっていますよね。小さい町内会のソフトボール大会とかでも、必ず“スポーツマンシップ”が出てきますよ。小さいころから親しんできたという意味での近さは感じるけれども、普段、コーチングに使ったりはしない。
スポーツマンシップは現場で使えるか
広瀬 もし、スポーツマンシップに対するわかりやすい説明があったとしたら、中高生にスポーツを教えている指導者がスポーツマンシップという言葉を使うかな。
岡田 使わないと思う。
広瀬 使いにくいかな。
岡田 昔、「スポーツマンだから…」というふうに言われてきたわけですよ。でもスポーツマンといっても一緒の人間なわけで、優秀ないいやつばっかりが集まるわけじゃない。悪いやつもいるから、だからこそスポーツマンシップという言葉がある。みんないいやつやったら、スポーツマンシップという言葉はいらんわけですよ。変なやつもおるから、あえてスポーツマンシップという言葉を作って、このゲームをプレーする間はいいやつでいようよという、半分ルールみたいなものです。
平尾 フェアプレーという言葉もそうですよね。
広瀬 実際、(フェアプレーという言葉は)1871年にサッカーのFAカップがオープン化した時に出てきたんです(第1章その3参照)。初めてオープン化して労働者階級のチームが入ってきたときに、明文化しておかないと試合がむちゃくちゃになるからって。貴族がやってるうちはいらなかったんですよ。
ただ、スポーツをするためのスポーツマンシップという側面と、スポーツを通してスポーツマンシップが身についたという側面があります。で、そのスポーツマンシップとは何かというと、尊重するだとか、ルールを守るだとか、そういうことがスポーツで身についたら、その選手は一般社会でもいいやつですよね。
岡田 僕は、テレビなどいろんなところでスポーツマンだと思われてるから、イメージ作ってます。本当の僕知ってるでしょ(笑)。
平尾 僕だってそうですよ(笑)。
広瀬 それは否定しないけれども(笑)、原則があって、原則どおりにいかないからって、それをないがしろにしていいってことじゃない。このスポーツマンシップという言葉は、現場で使いやすい言葉なのか。あるいは使いやすくするためにはどうすればいいのかなって僕は今悩んでいます。
平尾 広瀬さんからこの言葉を聞いたときにね、おもしろいなと。僕らから言うと全然意識してない言葉だから。聞かれると明確な答えが出てこないんです。「ええつっこみやなぁ」って思ってね。
うろ覚えですけど、昔、ちょっと読んだ本に「スポーツマンシップという言葉が一番最初に出てきたのは、1700年代の後半にイギリスの文献」とあったんですよ。この言葉はルールができる前には非常に必要な言葉であったように思うんです。皆がその中で暗黙的に守らなあかんこと、ということで。ところが今、ルール化されてきて、その言葉は必要ではなくなってきているのかもしれませんね。
岡田 要するに最初スポーツをする人は、皆が貴族で良い行動をしていて、そんな言葉もいらなかった。ところがだんだん近代スポーツになって、体系化されルール化されてきたら、あんまり必要とされなくなったということだね。
スポーツマンシップはモラル
広瀬 僕が何冊か本を読んできた中で判断すれば、それは半分正しくて、半分間違ってると思う。もちろんスポーツは変容する。だんだんルールもできてくる。最初はスポーツというのは気晴らしだから、勝ち負けなんてまったく関係ない。一日中遊べばいい、というだけだから。労働とは関係ない遊びに関するものを全部スポーツと言っていたわけだから、狩りもスポーツだし。それがだんだん余暇が出てきて、労働者階級もスポーツをやり始める。その後、気晴らしから勝敗を目的とする方向にスポーツは変わる。そして勝利が目的化する。これが19世紀。そこでルールができてくる。そうすると、フェアプレーとか、スポーツマンシップが明文化してくる。「スポーツをちゃんとやろう」、「少なくともこの2時間はスポーツを楽しむためにお互い守らなければならないことがあるよね」というスポーツをたのしむために必要な暗黙の了解事項のようなものを、スポーツマンシップと言っていたらしい。
それを守ることは社会のルールを守ることにつながるし、お互いを尊重するという意味合いもある。つまりスポーツで養成される要素が社会でも使われる。
平尾 最近、あまり使わなくなっている言葉のような気がするんですよ。使われる頻度がだんだん、ね。
広瀬 今は圧倒的にスポーツマンシップよりフェアプレーが多い。スポーツマンシップとフェアプレーがほとんど同義語化しちゃっている。スポーツの基礎問題と応用問題にかかわってくるんだけど、例えば20歳過ぎた人に言うべき“スポーツマンシップ”と、10歳の子に言うのとでは、変えなきゃいけないかもしれないね。
平尾 それはあると思います。
広瀬 まず、原則だけはきちんと教えて、そこから先は応用だよということだね。
岡田 結局、昔の貴族がやっていたころの勝っても負けてもよかったねという時代から、負けたらクビみたいな勝ち負けの重要性、これだけ変わったときにまだ頭の中では、昔のスポーツは美しいとかアマチュアスポーツは美しいとか思っている。けど、現実にはそんなスポーツはなくなったんですよ。サッカーだってそうですよ。一義的にこうだっていうのもおかしいし、スポーツマンシップはこうじゃなければいけないっていうのもおかしい。
僕はいつも言うよね。悪いことをするやつがいるから、スポーツマンシップっていう言葉が抑えで必要なんじゃないかな。
広瀬 今、ものすごくモラルハザード(道徳的危機)がある。原因の一つとして、日本ではあるときから「価値観を教えちゃいけない」教育になってしまったからだと思う。ぶつかる相手がいないわけ。道徳教育になりますからという理由で「先生が価値観を教えちゃだめ」という教育になったらしい。道徳は教えたほうがいいと僕は思う。ただしその価値をまるで鋳型にはめるように押しつけるのはいけない。提示された価値観に対して、あなたはどう思うのということが重要でね。多分スポーツマンシップってモラルだよね。
岡田 そうだよね。
スポーツマンシップを定義しよう
平尾 これを機に、今の時代にあった、新しいスポーツマンシップを構築したらいい。
広瀬 そう、スポーツの再定義を今するべきだと思っている。
平尾 僕らは今、あいまいに使ってるんですよね、このスポーツマンシップって。自分達でなんとなく、まあこんなものかなと思ってやってるんですけど。
広瀬 19世紀、20世紀で社会が変わっているのに、このスポーツマンシップという言葉だけ変わらないってことはないよ。
平尾 そんな感じしますね。
広瀬 ただ、「あてはまらない例があるから定義できないので定義しないでいい」ということじゃないと思うんです。定義は定義で重要。だけど、俺はこの定義に従わないとか、俺はここまで認めるけどここからは認めない、というのはアリ。
岡田 定義はできるんじゃないですか。オーソドックスに誰もが文句を言わない定義を。
広瀬 あとはそれぞれの指導者が自分の価値観で、「ここは使う」とか、「ここは違う」と思うよって生徒に言えばいい。「ここはきれいごとじゃないか」って言えばいい。
岡田 僕は定義できて、きれいごとで、それでいいじゃないかと思う。「スポーツマンシップというきれいごと」があってもいいと思う。
平尾 そうですね、一種の自己抑制は必要だし。
岡田 そういうものがなくなったら、もう何でもありでゲームにならないもんね。
広瀬 第一、これじゃあスポーツが面白くないよ。スポーツにはスポーツマンシップが必要。…今日は、ありがとうございました。(終わり)
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2024-02-05
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2022-12-05
勝つための“食”戦略 『最新テニスの栄養学』(高橋文子著)
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