殿堂入りした名選手、デニス・ラルストン氏が78歳で逝去

写真は1970年ウインブルドンでのデニス・ラルストン(アメリカ)(Getty Images)

グランドスラム大会のダブルスを5度制し、1960年代にプロの「ワールド・チャンピオンシップ・テニス(WCT)」と契約した最初のプレーヤーたちのひとりであるデニス・ラルストン(アメリカ)が日曜日に78歳で亡くなった。彼はまた、国際テニス名誉の殿堂入りした人物でもあった。

 ラルストン氏の妻リンダさんと話したグレーロック・テニスクラブのテニスディレクターであるダリン・プレザント氏によれば、ラルストン氏はアメリカ・テキサス州オースティンで癌のために亡くなった。

 シングルスプレーヤーとしての彼は、1966年ウインブルドン決勝でマニュエル・サンタナ(スペイン)に3セットで敗れていた。彼はまた、1960年USオープンと1970年オーストラリアン・オープンで準決勝に進出した。彼はコンピューターによるランキングシステムが開始するずっと前の1960年代、3年間に渡ってもっともランキングの高いアメリカ人プレーヤーと見なされていた。

 しかしラルストン氏が素晴らしい成功をおさめたのは、ダブルスにおいてだった。彼はラファエル・オスナ(メキシコ)とペアを組み、1960年に17歳でウインブルドン男子ダブルスで優勝した。彼と同胞のチャック・マッキンリー(アメリカ)は、全米選手権で3度(1961年、63~64年)栄冠に輝いた。ラルストン氏はまたクラーク・グレーブナー(アメリカ)とチームを組んで1966年にフランス選手権でもタイトルを獲得し、ミックスダブルスでも3度グランドスラム大会決勝に進出した。

 1967年にWCTツアーと契約したラルストン氏は、ジョン・ニューカム(オーストラリア)、トニー・ローチ(オーストラリア)、クリフ・ドライスデール(南アフリカ)、アール・ブッフホルツ(アメリカ)、ニキ・ピリッチ(クロアチア)、ロジャー・テイラー(イギリス)、ピエール・バルト(フランス)らとともに所謂『ハンサム・エイト』のひとりになった。このサーキットはその翌年からスタートし、1990年に現在のATPツアーが生まれるまで続いたのである。

 WCTツアーはタイブレークシステムを導入し、トッププレーヤーを惹きつけるための賞金構造とボーナスプールを強調することでスポーツの商業化に一役買った。WCTは選手にカラフルなウェアを着ることを奨励してファンには応援を促し、テニスの落ち着いた雰囲気を揺るがす動きを起こした。

 1942年7月27日にアメリカ・カリフォルニア州ベーカーズフィールドで生まれたリチャード・デニス・ラルストンは、若い選手だったときにパンチョ・ゴンサレス(アメリカ)に師事を仰いでいた。南カリフォルニア大学でプレーしたラルストン氏はチームが1962年~64年にNCAAタイトルを獲ったときのメンバーで、自身はNCAAのダブルスでチャンピオンに輝いた。

 1966年ウインブルドンで準優勝したあとプロに転向したラルストン氏は、シングルスで576勝251敗を記録して41タイトルを獲得した。ダブルスではキャリアを通し、125勝87敗の戦績を残した。彼は1977年に引退し、その10年後に国際テニス名誉の殿堂メンバーに選出された。

 デビスカップでの彼はアメリカ代表チームの一員として1963年の優勝に貢献し、決勝でルーマニアを倒した1972年を含めて72年から75年には監督を務めた。

 彼のコーチとしてのキャリアは、そのデビスカップが始まりだった。マルチナ・ナブラチロワ(アメリカ)のライバル関係の初期に当たる6年間、彼はクリス・エバート(アメリカ)のコーチを務めた。

「彼は本当に信心深くて家族愛の強い人で、素晴らしい選手でありコーチでした。彼がいなくなってしまったことが悼まれます。デニス、安らかに眠ってください」とエバートはツイートした。

 エバートのほかにラルストン氏が指導した選手たちの中には、ロスコ・タナー(アメリカ)、ヤニック・ノア(フランス)、ガブリエラ・サバティーニ(アルゼンチン)がいる。彼はまた1980年代と90年代に南メソジスト大学で男子チームのコーチを務め、ここ10年はテキサス州オースティンのグレーロック・テニスクラブのティーチング・スタッフだった。

「コート内外で多くの業績を残したにも関わらず、彼は信じられないほど謙虚で誰にでも助けの手を差し伸べました。彼は思いやりがあり、誠実な人物でした」とプレザント氏は語った。ラルストン氏が選手としてツアーを巡っていた時代、またコーチをしていた時代の話をするのが大好きだったとプレザント氏は回顧した。

「デニスは彼のストーリーを面白おかしく話して聞かせる能力に長けており、その話術はとても洗練されていました」とラルストン氏は明かした。長年のテニスキャリアの中でラルストン氏は1990年代に両膝に大きな手術を受け、2度目の手術のあとにはウインブルドンのシニア大会でプレーした。

 のちに足の問題を抱えたラルストン氏は、一連の感染症のために左脚の膝から下を切断することを余儀なくされた。彼は義足をつけ、全米テニス協会(USTA)のリーグ戦でテニスをプレーした。絶え間ない痛みにさいなまれていた彼は痛み止め薬の中毒になり、その事実を公にしていた。彼はベティ・フォード・センター(カリフォルニア州ランチョミラージュにある薬物依存症の人のため治療センター)に滞在し、その依存症の問題を克服していた。

 彼は56年連れ添った妻のほかに息子のマイク、娘のロリとアンジェラを残して天に召された。(APライター◎ベス・ハリス/構成◎テニスマガジン)

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写真◎Getty Images

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