1995年ウインブルドン「松岡修造〜ベスト8の記憶〜」

1995年のウインブルドンで、ひとりの日本男子が快挙を成し遂げた。戦後では初、62年ぶりとなるシングルスでのベスト8進出。あの偉業をもう一度、思い出してみたい。【2018年8月号掲載】

文◎牧野 正 写真◎Getty Images、BBM

ラストチャレンジ

 久しぶりに心が折れてしまいそうな感覚だった。1995年のフレンチ・オープン予選。世界ランク114位の松岡には第5シードがついたが、1回戦でジョシュア・イーグル(オーストラリア)にフルセットの末に敗れた。赤土の上で323位の若手選手に喫した黒星は、長く日本のナンバーワンとして戦ってきた男から、自信と気力を根こそぎ奪い取ってしまった。

 もう本当にダメかもしれない。やめたほうがいいのかもしれない。この2年、トップ100を切れないでいる。このまま続けていても同じことではないのか。

 考えれば考えるほどわからなくなった。答えが出ない。出したくなかったのかもしれない。ただ、決断が迫られている27歳に、ひとつの朗報が届いていた。

「ウインブルドンの本戦に出られることになったんです。予選からと覚悟していたんですが、欠場者が出て、それで本戦に入れることになって。だったら、もう少しだけ頑張ってみようと。これがラストチャレンジだという気持ちでした」

 気持ちを切り替えた松岡は1ヵ月後に迫ったウインブルドンに向け、3大会に出場するスケジュールを組んだ。オーストリア・アネンヘイムでのチャレンジャー大会に出場したあと、オランダ・ロスマーレン、イギリス・ノッティンガムのATPツアー2大会。言うまでもなく、すべて芝のコート。この3大会で芝の感覚を身につけ、6度目となるウインブルドンに挑むことを決めた。

 この3大会は、2回戦、1回戦、ベスト8という結果に終わった。ATPツアー2大会の敗戦は16位のリチャード・クライチェク(オランダ)と33位のマーク・ウッドフォード(オーストラリア)に喫したもので、ともにファイナルタイブレークの大接戦だった。悔やまれるのは2試合ともマッチポイントをつかんでいたことだった。当時は勝ち進んだラウンドポイントだけでなく、上位選手に勝てばボーナスポイントを獲得することができた。

「いいプレーをしているのに勝ちきれないし、ボーナスポイントをフイにしてしまった悔しさ。ダブルパンチを食らった感じでした。ただ、プレーの内容は決して悪くなかったので、自分のプレーができれば(ウインブルドンでも)いけるかなという気持ちはありました」

 ドローが決まったとき、松岡のヤマにはビッグネームがいなかった。第8シードのセルジ・ブルゲラ(スペイン)が直前に欠場したことで、4回戦までシード選手と当たる可能性は第10シードのマルク・ロセ(スイス)しかいなかった。いわゆる"ラッキードロー"である。だが、松岡はそうは思わなかった。

「当時の僕は、そんなことを思えるような選手ではありませんでした。1回戦を勝てるかどうかの選手。ドローを見て、2回戦、3回戦と先の相手まで見るようなレベルではない。1回戦の相手は誰か。そこだけでした。それがカレル・ノバチェクでしたから、これはタフなドローだと思いました」

 チェコのノバチェクは30歳になるベテランプレーヤー。当時は28位だったが、4年前には自己最高の8位を記録していた。グランドスラムは4大会すべて4回戦に進出し、前年のUSオープンでベスト4に入ったばかりの実力者だった。実績、経験とも松岡とは比較にならなかった。

 ただ、開幕を控えて松岡の気持ちは漲っていた。ラストチャレンジ。これが最後のウインブルドンになるかもしれない。誰が相手であろうと自分のテニスをするだけ。自分を信じて、思いきって戦うだけだ。

選手生命の危機

 松岡のピークは24歳で迎えた1992年のシーズンと見る向きが多い。プロ7年目、両膝半月板の損傷、左足首靭帯の断裂など、多くの故障、手術を乗り越え、充実したツアー生活の中にいた。

 春に韓国でツアー初優勝を果たすと、ウインブルドン前哨戦となる芝のクイーンズでは世界ランク8位のゴラン・イバニセビッチ(クロアチア)、2位のステファン・エドバーグ(スウェーデン)を下して準優勝。7月6日付の世界ランクでは自己最高となる46位をマークした。当時の日本テニス界では大きなニュースだった。

 まさにここから、爆発の予感がなかったわけではない。だが、11月で25歳の誕生日を過ぎた頃から微熱が続き、何とも言えない身体のだるさを感じる日々が続く。

 伝染性単核球症だった。ウイルスの感染によって発熱、リンパ節腫脹などの症状を呈し、血液中に単核球の増加が見られる感染症。日本では幼少期、青年期での感染が多いが、ごくたまに若い成人も感染することがあるという。

「平熱がずっと37度を超えていて、1ヵ月に一度は38度が続く。すぐにのどが痛くなって、最初の2ヵ月間は病院でずっと寝たきり。まったく動けませんでした」

 特別な治療法はなく、安静にしていることがすべてだった。一週間で治る人もいれば、なかなか治らない人もいるという。残念ながら、松岡の場合は後者だった。年齢が高い分、症状は重かった。ロビン・ソダーリング(スウェーデン)、マリオ・アンチッチ(クロアチア)も感染し、引退の引き金になったとも言われている。

「20代で感染したからだとは思いますが、つらい状態が2年も続きました。(練習を)やりすぎるとぶり返す、そうなったら100%終わりですよと(ドクターに)言われていましたから、練習時間も少なくなる。練習を当日にキャンセルすることもよくありました。ケガではないというのが一番つらかった。いつ治るのかさえ、まったくわからなかったですから」

 1993年と1994年。松岡にさしたる戦績が残っていないのは、そのせいだろう。世界ランクは当然のようにトップ100から転落した。だが、万全とは言えない状態でもトップ200から落ちることはなかった。病気と向き合いながらも100位台には踏みとどまり、日本のエースとして孤独な戦いを続けていた。

 1995年はプロ10年目のシーズンだった。松岡は悩んでいた。この一年でトップ100に入れないようなら、もう潔くやめるべきではないのか。こんな身体の状態のままでツアーを回ることに限界を感じていた。

 しかし、1月のオーストラリアン・オープンは1回戦敗退に終わったものの、体調は少しずつ戻りつつあった。今年はいけるかもしれない。やれそうな気がする。はやる心を抑えながらトレーニング量を増やしたが、それが裏目に出る。勝つと信じて疑わなかったアウェーのデ杯フィリピン戦。2勝1敗で迎えたエース対決で左足のケイレンに襲われ、まさかの途中棄権。「今までで一番悔しい敗戦」と丸坊主になった。

 3年前の輝きが色褪せつつあった。日本ナンバーワンの座は譲らなかったものの、本村剛一、金子英樹、鈴木貴男ら個性あふれる若手が台頭し、

「もう松岡の時代ではない」と世代交代を叫ぶ声も上がり始めていた。

 そんな声を封じるためには、ふたたび存在感を発揮するためには、グランドスラム大会で結果を出すことだった。だが、冒頭で述べたように、その矢先のフレンチ・オープンで予選1回戦敗退。格下の選手を相手に、デ杯でも、グランドスラムでも勝てず、松岡の心は粉々になっていた。

1995年のウインブルドン。当時世界ランク108位の松岡はノーシードから勝ち進み、誰も予想もしなかったベスト8までたどり着いた

「修造、自分を信じろ!」

「修造、自分を信じろ!」

 1回戦で戦うには嫌な相手だった。ノーシード対決とはいえ、28位のノバチェクは粘り強いプレーヤーとして知られている。ただ、芝が得意な選手ではなかった。

 第1セットを6-4で先取したが、第2セットをタイブレークの末に落とすと、第3セットも3-6とリードを許した。これまでの松岡なら、このままズルズルと敗者になっていただろう。この2年、ずっとそうだった。だが、ラストチャレンジにかける想いは強く、第4セットを6-3で奪って2セットオールに追いついた。

 最終セットは一進一退の攻防が続いたが、最後は下馬評を覆して松岡が抜け出した。5-4からしっかりとサービスキープに成功し、ウインブルドンでは3年ぶりとなる1回戦突破に成功した。

 2回戦の相手は予選勝者のマーク・ノールズ(バハマ)。世界ランク204位の23歳は、1回戦で49位のマルセロ・リオス(チリ)を4セットの末に退けていた。のちにダニエル・ネスター(カナダ)とのコンビでダブルス世界1位になるノールズだが、ノバチェクよりは戦いやすい。怖いのは予選から4連勝という勢いだけ。だが、松岡の体調は最悪だった。

「練習中に腹筋を切ってしまったんです。ものすごく痛くて、これは棄権することになるかもしれないなと。でも、これが最後になるかもしれないと思うと、とても棄権はできない。腹筋が切れてもテニス人生が終わることはないと、ものすごい闘志で戦ったことを憶えています」

 6-1 6-4 6-2。棄権も考えた2回戦は「人生で一番うまかった」と振り返るほど完璧な出来だった。試合後の痛みは尋常ではなかったが、プロ10年目、初めてグランドスラムの3回戦に到達した喜びは格別だった。

 松岡の勢いは止まらなかった。3回戦の相手となるハビエル・フラナ(アルゼンチン)は、松岡がベスト8に終わった前哨戦のノッティンガムで優勝していた。世界ランクは34位とノバチェクよりも低かったが、左から繰り出すサーブ&ボレーは切れ味鋭く、センスあふれるプレーヤーだった。1回戦でアンリ・ルコント(フランス)、2回戦でアンダース・ヤリード(スウェーデン)を下し、ノッティンガムからの連勝を7まで伸ばしていた。しかもオールストレートの快進撃。

「すごく調子に乗っているし、自信をもって戦っているのがわかりました。僕より明らかにうまかったですし、これは普通にやったらとても勝てないなと」

 そのフラナに対し、松岡は第1セットをタイブレークで奪う。しかし、続く2セットは3-6 6-7で持っていかれた。第3セットのタイブレークをポイント6-8で落としたのは痛かった。どちらかと言えば、第3セットは松岡のほうが押していた。「取れていたセット」を失ったことで、第4セットは精神的にも肉体的にもつらかった。腹筋の痛みは限界を超え、もう気にはならなくなっていた。

 オールキープの4-5で迎えた第10ゲームだった。松岡のサービスゲームで0-30となり、あと2ポイントまで追い込まれる。そのときだったかどうかまでは憶えていない。だが、松岡はその最大のピンチを乗り越えられた理由だけは憶えている。

「お客さんの"修造、自分を信じろ!"という声援が聞こえたんです。それで、はっとしました。そうだ、まだ負けていないことに気づいて、最後まで自分を信じて戦おうと。そこからはもう必死でした」

 5-5に追いつき、第4セットをタイブレークで取り戻すと、最終セットは2-1からの第4ゲームでブレークに成功。そのワンブレークを守りきって4回戦進出を決めた。松岡は今でも、あの声援に感謝している。

「最後のほうはフラナのプレーが少しおかしくなっていました。僕の発した熱量に負けたんだと思います。それくらい必死で戦っていました。ただ、その熱量をくれたのは、あの声援、それは間違いありません」

プロ10年目で手にした大きな勲章。ウインブルドンのベスト8は松岡が見せた最高のパフォーマンスだった

サービスキープの条件

 松岡は芝を得意としていたという声は少なくない。最大の武器であるサービスが、低く滑る芝で威力を発揮するからだ。しかし、当の本人はそれを否定している。

「芝は苦手というか、下手でした。一番の理由はボレーが下手だったこと。リターンも下手、低いボールの処理も下手、フットワークも下手で、芝ではいい要素がほとんどありませんでしたから」

 当時、芝の上ではサーブ&ボレーのスタイルが主流だった。ストローカーでもネットに突進し、前に出なければ芝では勝てないと言われていた。92年にアンドレ・アガシ(アメリカ)が優勝し、その定説を覆したけれども、ネットを奪うことが芝を制する条件でもあった。

 サーブ&ボレーによってラリーが減り、ポイントの時間が短くなったことで、松岡は芝での技術不足を補うことができた。一発、二発の勝負でいい。芝の上でも相手にベースラインでどっしりと構えられたら、そうはいかなかったはずだ。

「本当にラッキーでした。僕もそうですし、みんなほとんど芝の上ではサーブ&ボレーをしていましたから。今だったら……ベスト8には残れていないでしょうね」

 芝ではほとんどいい要素がなかったと言う松岡だが、得意のサービスが有効だったことは間違いない。相手が松岡の何を恐れていたか。芝の上で松岡のサービスをブレークすることは簡単ではなかった。

「サービスはコース、回転など、ものすごく考えて打っていました。セカンドでもファーストくらいのリスクを持って打つことも多かった。芝ではサービスでギャンブルができるんです」

 芝に限らず、松岡はサービスキープの条件として、ファーストサービスの確率を60%に置いていた。1ゲームに最低2本のサービスポイント(フリーポイント)があること、そしてファーストサービスのポイント獲得率を70~80%、セカンドサービスのポイント獲得率を50%に置いてサービスゲームを戦っていた。コースはセンター、ワイドもあるが、ほとんどが相手のボディだった。そのボディも、ややフォア寄り、ややバック寄り、そしてど真ん中と打ち分け、サービスキープに成功していた。

「サービスをキープして、一度ブレークすれば(勝てる)という考えでした。サービスゲームは競ってもいい。データの統計上で見れば80%はキープできていましたから、0-30になっても焦る必要はない。そこで焦って、何かを変えようとするとおかしなことになる。ただ、相手がどうしようもない(リターンが当たっている)ときはありますから、そのときは仕方がないとあきらめていました」

 松岡は試合後、必ずスコアの統計を確認していた。勝因、敗因を分析し、特にサービスゲームのデータを重視した。

「あの年のウインブルドンで言えば、セカンドサービスがよかったし、ボディは9割以上だったと思います」

 サービスゲームにこれ以上のない自信を深め、4回戦が始まった。相手は世界ランク119位のマイケル・ジョイス(アメリカ)。大チャンスだった。

人生の大一番

人生の大一番

 ジョイスは1回戦で第10シードのロセを下す大金星を挙げていた。2回戦は92位のジョルジ・ブリヨ(スペイン)、3回戦はワイルドカードで出場した141位のクリス・ウィルキンソン(イギリス)を倒して勝ち上がっていた。

 松岡はベスト16入りで、ある程度の満足感を感じていた。無理もない。これまで一度もグランドスラムで3回戦に進めなかった。大会後の世界ランクでは3年ぶりにトップ100に戻ることができそうだった。

 よくやったと思う。ラストチャレンジは実ったのだ。ここで負けても誰も文句など言わないだろう。だが、それは4回戦の相手が上位シードならではの話だった。相手がジョイスとなれば、その意味合いはまったく違う。

「絶対に負けられないし、負けてはいけないと思いました。これは言い訳できないなと。頑張れば勝てる相手。大チャンスでした。でもそれはジョイスも同じ、いや僕以上だったと思います。お互いにとってのクライマックス。これまでの人生の中で、一番勝ちたい試合でした」

 当時は予選から、あるいはノーシードからグランドスラム8強に進む選手が大勢いた。怒濤の快進撃で一気に注目を集め、トッププレーヤーへの階段を駆け上がっていく。松岡はいつか、自分がその選手のひとりになるのだといつも思っていた。ジョイスとて同じ考えだったろう。ふたりのうちのどちらかが、そのチャンスを手にできるのだった。

 勝ちたいと力が入りすぎるときの松岡は自滅が定番だった。グランドスラムで、デ杯で、何度そんなシーンを目にしてきたことかわからない。だが、この日は違った。サービスキープを淡々と続け、着々とポイントを重ね、静かに勝利へと近づいていった。

 6-3 6-2と2セットを連取し、第3セットも5-4とリード。次のゲームでサービスキープに成功すれば、日本男子として62年ぶりとなるベスト8が決まる。30-0としたところで松岡が叫んだ。

「この一球は絶対無二の一球なり!」

 松岡の緊張は極限に達していた。叫ばずにはいられなかった。そうでもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。

「誰が見ても僕の勝ちゲームだったでしょう。でも僕は、このサービスゲームを落としてしまったら、絶対に負けるだろうと思っていました。あのゲームに、すべてをかけていました」

 それから数分後、松岡は両手の拳を握り締め、大きな叫び声を上げながらコートを駆け回り、ジョイスと握手を交わしたあと、芝の上に仰向けに倒れ込んだ。それは幾多の障害を乗り越え、努力を怠らなかった男の執念が実った瞬間でもあった。

 ちなみに倒れ込んだ際、尾てい骨を激しく打ちつけている。試合後のシャワーを浴びていると激痛が走り、記者会見のあとはベスト8の余韻に浸るまもなく病院へ急いだ。幸い、痛み止めの座薬で助かったが、腹筋に尾てい骨と松岡は身体を曲げることができなくなった。

蘇ったサンプラス

 1回戦と2回戦、2回戦と3回戦に大きな差はない。もちろんひとつでも上のほうがいいのだが、これがベスト16とベスト8となると天と地ほどの差がつく。松岡はそれを「人生が変わる差」と言った。

 準々決勝の相手は3連覇を目指す第2シードのピート・サンプラス(アメリカ)。これまでの相手とは格が違う。人生最大の勝利を手にして、聖地ウインブルドンでベスト8に入った。相手がサンプラスであれば 〝言い訳"は立つ。負けてもともと、楽しむだけ。しかし、松岡にそんな考えは微塵もなかった。

「チャンスはまだ終わっていないと考えていました。マイナス要素を打ち消し、勝つつもりでコートに入りました。完全に戦いモード。あのときに初めて侍というか、目つきがグッと入っていくような、僕が当時、学んでいた感覚を味わうことができたんです」

 試合は1番コートで13時から始まった。第1セットをタイブレークで先取したのはサンプラスではなく、松岡だった。松岡は緊張していたが、サンプラスの緊張、硬さはそれ以上だった。

「明らかに(サンプラスのプレーが)おかしいなと思いました。僕も少し緊張して、いつもの8~9割程度の出来でしたが、サンプラスは5割程度で死人のような状態。チャンスでした」

 流れが変わったのは、第2セット3-3からの第7ゲームだった。サンプラスのサービスゲームで0-40となり、松岡がトリプルのブレークポイントを手にする。だが、その1本目、松岡のパッシングショットはラインを割り、リターンミスが2度続いた。うち1本はフレームショット。これでサンプラスが蘇ってしまった。0-40からは一気の12ポイント連取だった。

「そこからサンプラスが(いつもの)サンプラスになったんです。もともと差があるわけですから、そうなったら手がつけられない。勝てるかもしれないという想いが、そうさせてしまったのかもしれません」

 第2セット以降は、3-6 4-6 2-6。試合後、深々と頭を下げてコートを去っていく松岡を、1番コートの観衆はスタンディング・オベーションで見送った。快進撃はついに止まった。しかし松岡は、ふたたびテニスへの情熱を取り戻すことに成功した。サンプラスが3連覇を達成した翌日、世界ランクは74位まで上がっていた。

サンプラスに(写真左)に敗れて松岡の挑戦は終わりを告げた。これ以後、ウインブルドンで準々決勝を戦った日本男子はいない

 松岡は引退するまでグランドスラムの本戦に25回出場したが、1回戦敗退が15回、2回戦敗退が9回を数える。残りの1回が、この95年のウインブルドンのベスト8だった。

「僕はグランドスラムとデビスカップを軸に戦っていました。それがすべてと言ってもいいくらいです。でも、それが結果には出ていない。気持ちが入りすぎていたからかもしれないですね」

 毎年、大会が近づくと松岡のもとにはウインブルドンから招待状が届く。シングルスでベスト8に入ったご褒美、いわゆるラストエイトクラブだ。その招待状が届くたび、松岡はあの日々の濃密な出来事を思い出し、懐かしんでいる。        

(文中敬称略)

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