スベン・グロエネフェルトの「コーチングの世界」(1) キャリアのスタート
(※当時の原文ママ、以下同)3人のグランドスラム・チャンピオンをはじめ、そのコーチング・リストには錚々たる名前が並ぶ。クルム伊達公子、沢松奈生子といった日本が誇るトップ選手のコーチも務め、そして若きジャー・フェデラーも、その薫陶を受けていた。現在はアディダス契約選手の育成プログラムを統括しながら、独自のプロジェクトも推し進める、現代最高のコーチのひとり。それがスベン・グロエネフェルトだ。彼が示すコーチングの神髄、思い描くコーチングの世界を数回にわたってお届けしよう。まずは、日本と深い関わりをもつスベンのキャリアのスタート、そして手がけてきたトップ選手との思い出を語る。(インタビュー◎ポール・ファイン)【2013年6月号掲載】
インタビュー◎ポール・ファイン 翻訳◎木村かや子 写真◎BBM、AP
According to Sven Groeneveld
The World of Tennis Coaching
スベン・グロエネフェルトの「コーチングの世界」
過去20年のコーチング・キャリアにおいて、スベン・グロエネフェルトが“やっていない”ことはいったい何なのだろうか?
彼はロジャー・フェデラーを、未来のスーパースターの動乱のティーンエイジャー時代に、コーチしていた。
彼はモニカ・セレスに、マリー・ピアースに、アナ・イバノビッチにグランドスラム・タイトルをもたらし、ミヒャエル・シュティヒとアランチャ・サンチェス・ビカリオをメジャー大会の決勝へと導き、そしてカロライン・ウォズニアッキを年末ランキング1位へと導いた。
彼の生徒のリストには、アンディ・マレー、マルチナ・ヒンギス、フェルナンド・ベルダスコ、マリオ・アンチッチ、マリア・キリレンコ、メアリー・ジョー・フェルナンデス、グレッグ・ルゼドスキー、トミー・ハース、そして車いすテニスの英雄、エステル・フェルヘールの名もある。
権威あるスポーツ・メーカーのアディダスは、2006年に選手育成プログラムをスタートさせたとき、アドバイザー兼コーチとしてグロエネフェルトを雇った。キャリアを通し、世界各地を旅してきたオランダ人巡回教師は、アディダスの選手が彼の助けを必要としているとき、どこへでも出向いていく『テニスのフライングドクター(※)』となったのである。
※「フライングドクター」とは元々、オーストラリアの砂漠地帯など常住医師のいない地域で、必要に応じて小型飛行機で病院に搬送する事業のこと。現在では実際に飛行機で医療スタッフが駆けつける活動もある。
躍動的なグロエネフェルトは、常に個人的な新しいチャレンジと、コーチの仕事を向上させる新しい方法を探求している。彼は同志とともにプロフェッショナル・テニスコーチ連盟を創設し、オレンジ・コーチをスタートさせ、2011年にはもうひとりのオランダ人コーチ、ローラン・ローレンスとともに、アムステルダムでテニスアカデミーを設立している。
しかし、スベンはスベンガーリ(ジョージ・デュ・モーリアによる1894年の小説『トリルビー』に登場する催眠術師)ではない。温和な47歳であるグロエネフェルトは、テニス連盟のリーダーたち、若い選手の親、他のコーチたち、スポンサー、メディア、そして、ときに難しい性格のプレーヤーたちと、うまく調和を保ちながら効果的につき合い、うまくやっていける人物としての評価を勝ち取っている。
彼の人生、コーチングの仕事についてのこの包括的インタビューの中で、グロエネフェルトはその膨大な専門知識と啓発的な経験を分かち合ってくれた。あなたが熱狂的テニス愛好家であれ、プロのコーチであれ、テニスを内部から見たグロエネフェルトの見解は、興味深いものであるはずだ。
「私の、違った環境に順応し、適応できる能力とともに、年長者への敬意、他人の言うことに耳を傾け、謙虚であるという点が、彼らの目には際立って映ったのかもしれない 」
日本でキャリアをスタート
セレス、沢松の存在がチャンスを広げてくれた
――1991年のアメリカの『テニスマガジン』に掲載されていた小さな広告が、あなたの人生を定めたというのは本当ですか。
「私は1989年にアメリカで大学を卒業したのだが、オランダに戻ったとき、母国にアメリカンユニバーシティがあることを発見したんだ。少しの間、プロトーナメントでプレーをし、クラブでテニスを教えたあと、私はその大学に通い、1991年に卒業した。私の学業とトーナメントテニスは過去のものなのだ、という結論に達するのに、長い道のりが必要だったんだ。
だから、アメリカの『テニスマガジン』に載っていた、日本での指導に興味をもつコーチを募集する広告を母が私に見せたとき、私は新しい挑戦を探しているところだった。私はこれに応募し、2ヵ月後、写真を送ってほしいと書かれた手紙を受け取った。そしてその後、日本のアメリカン・テニススクールで教えてほしいという要請の別の手紙を受け取ったんだよ」
――日本ではどんな経験をしたのですか。
「アメリカン・テニススクールは2万5000人の生徒を抱えており、この経験が、私に日本の文化を学び、一般レベルで教える機会を与えてくれた。そこで、アメリカン・テニススクールのヘッドコーチ、テックス・スウェインに多くのことを学んだ。テックスは何年も日本で教えてきた人なのだが、彼は私に日本のティーチング法、そしてテニスコートが不足しているため1コートに大勢のプレーヤーを入れて教えるやり方を見せてくれた。
テックスの兄、ゲイリー・スウェインはIMGに勤め、ジョン・マッケンローのマネージャーだった人だ。しばらくして、テックスが私にトップ・ジュニアのコーチを始めてほしいと頼み、私たちはアメリカン・テニススクールのジュニア・プログラムのプランを作り上げた。また、テックスが兄からモニカ・セレスが大会出場のために東京に滞在する間、彼女の面倒を見ることができないか、というリクエストを受け取った。テックスは『スベン、これは君にふさわしい仕事だ。私の代わりに君がやるべきだと思う』と私に勧めてくれた。
テックスこそ、私が選手に何かを提供することができるコーチだと、私自身に信じさせてくれた人物だったんだ。彼は、私がプロとしてプレーしていて然るべきだと思っていてくれたのだが、同時にプロのコーチをすべきだとも思ってくれていた。そのサポートを得て、私はIMGの他の人物たちに会う機会を得ることができ、そして、私が東京での大会の間、モニカを助けることを承諾してくれたのだ」
――モニカとの一週間はうまくいったのですか。
「ああ。そのあと、IMGがこの仕事の報酬はいくらかがいいかと聞いてきたので、私は偉大なチャンピオン──というのもモニカはUSオープンにも優勝し、世界ナンバーワンを走っていた頃だったから──といっしょに働く経験を得られたことは大きな喜びであり、栄誉だと答えた。それは私にとってすばらしい学習経験だったのだから、なぜお金をもらう必要があるだろうか?
そのすばらしい経験が、日本でのさらなるチャンスにつながり、私は当時世界35位だった沢松奈生子選手と働くオファーを受け取った。彼女は年に6ヵ月間ツアーを回って旅しており、残りの6ヵ月は大学に通っていた」
――IMGとアメリカン・テニススクールは、あなたの何を気にいってくれたのだと思いますか。
「この質問には、私でなく彼らが答えた方がよいと思う。でも、世界を旅し、行く先々でさまざまな人々、違った文化に触れた経験を通して、私はさまざまな文化的特徴を理解できるようになったし、文化に敬意を払ってきた。私の、さまざまな人たち、年長者への敬意、他の人の言うことに耳を傾け、謙虚であるという点が、もしかしたら違った環境に順応し、適応できる能力とともに、彼らの目には際立って映ったのかもしれない」
――あなたは3人の選手をグランドスラム・タイトルへと導きました。最初のひとりは1992年オーストラリアン・オープンでのモニカ・セレスです。モニカの父親もまた、彼女をコーチしていましたが、共同作業はどのように機能していたのですか。
「モニカと私の関係は、メインコーチとしてのものではなかった。モニカの父カロリが、彼女のキャリアを通しメインコーチだったのだ。私は彼らの父娘の関係、そしてまたコーチと選手としての関係を観察した。私は、カロリがモニカの意欲を掻き立て、鍛錬を継続させているそのやり方を正確に認識していた。彼女は、私がこれまでいっしょに働いた中でもっともハードワーカーであり、鍛錬の行き届いた選手のひとりだった。信じられないような内なる炎をもっており、エネルギーは自然にわきあがってくるのだが、それはモニカの両親と、彼らが彼女に教えたテニスへのアプローチの仕方によるものでもある。
彼らとの経験は、より観察者としての、そしてサポート役としてのものだった。私はまだ非常に若かったが、それでも練習法や対戦相手に応じた準備の仕方においてアドバイスを施し、幾分かの貢献は果たしていたと思う」
――具体的にはどのようなことをアドバイスしていたのですか
「私はモニカが対戦するプレーヤーの偵察、戦力分析を行い、次の対戦相手について、私が洞察した情報を与えていた。彼女自身のプレーに関しては、ある種のポイントを組み立てる方法について助けていた。
モニカは左利きだったので、私は彼女に、右利きの選手がどんな特徴をもつか、何を苦手とするかを教え、練習では私がマルチナ(ナブラチロワ)やシュテフィ(グラフ)らを模倣して、これらのトップ選手と戦うことに慣れる手助けをしていた。ヤナ・ノボトナや、他のサーブ&ボレーヤーと対戦するときにも、やはり私がそれを模倣して練習する、という具合に、私たちは彼女にしっかり試合の準備をさせるためのいくつかのドリルを作り出したんだ」
「選手に自らの強み、そして弱みも自覚させる。強みを最大限に生かすことに集中すると、自然に弱みも改善されていく。弱みにちょっとした注意を払うことで、スムーズに上達させることができる 」
選手の潜在能力を最大限に引き出す
――プロ選手としてのあなたは、世界826位にしか至れませんでした。自分には世界クラスのプレーヤーになる潜在能力がないということがわかっていたのでしょうか。
「ああ、わかっていた。私がトーナメントでのプレーをやめた理由のひとつは、自分のポテンシャルについての自分自身の認識だった。もうひとつの理由は、構造的基盤を欠いていたということ。私は十分な意欲をもてていなかったし、精神的鍛錬も欠いていた。過去を振り返り、今、世界のベストプレーヤーのためにどんなアドバイスを提供できるかを考え、秀でるために彼らに何が必要かを見つめるとき、自分には才能や能力とは別の、完璧なプロフェッショナルをつくるためのパズルのピースが足りなかったのだと思うんだ」
――20代のときの自身のツアー経験は、コーチングにおいてヒントを与えてくれますか。
「私は学校でビジネス・マネージメントを勉強したのだが、それと自分の経験を合わせ、自分がどんなポテンシャルをもっているかを考えること、その潜在能力を最大限に引き出すためにある種のルールに則って行動するということ、そして潜在能力を管理し、構造化することを学ぶことができたと思う」
――あなたは50年前のハリー・ホップマン以来、誰よりも多くのワールドクラスの選手をコーチしてきた、と言って間違いないでしょうか。
「私がハリー・ホップマンと同じカテゴリーに属するかはわからないな(笑)。彼はコーチングの偉人であり、多くの意味でテニスというスポーツを発展させた人物なのだからね。ホップマン以降には、ニック・ボロテリーがトップであるはずだ。それに、ニック・サビアノやロバート・ランスドルプのような他のコーチたちもいる。確かにツアーコーチとしては、私もおそらくリストの上に方にはいるだろうけどね」
――あなたの指導の下で、マリー・ピアースは彼女の最初のメジャータイトル、1995年オーストラリアン・オープンのタイトルをつかみました。
「1994年に私がマリーのチームに加わったとき、ニックと私は責任を分け合い、私がツアーでの彼女のトレーニングを受け持ち、ニックはアカデミーにおいて彼女をコーチしていたんだ。私たちは非常によい役割分担とシステムを構築し、またホセ・リンコンという非常に優秀なフィジカル・トレーナーもいた。私たちは、フルタイムの専属フィジカル・トレーナーとともに旅した最初のチームの一角だったんだ。
1994年、マリーは対戦相手たちを圧倒しつつ、フレンチ・オープンの決勝に至った。しかし雨による延期のため、土曜に決勝を戦う替わりに日曜に試合をすることになったので、彼女はそこまでの良いリズムを失ってしまった。そして、アランチャ・サンチェスの経験は――私はその3ヵ月前までアランチャをコーチしていたのだが――マリーのあの決勝での敗北における、大きな要因となっていた。私は、マリーがもっていた肉体的強さを、最大限に活用したいと思っていた。あの時点で、テニスにおけるフィジカルは、日に日に大きな要素となり始めているところだった。
10月から私たちは翌年(1995年)のオーストラリアン・オープンを目指して猛練習を開始し、それが成果を上げた。そこで私が学んだもっとも重要な要素は、『試合、大会への準備は、ゴールにつながるプランを作り出すことを必然的に含んでいる』ということだった。そしてオーストラリアン・オープン優勝は、それらすべてのハードワークへの報酬だったのだ」
――ニック・ボロテリーが言ったようにマリーはかなり難しい人間であり、あなたも自分を「かなり頑固」と表現していました。どのようにしてあなたは彼女にベストのテニスをプレーさせたのですか。
「マリーは個性の強い性格の持ち主だった。その個性はコーチにとって、必ずしも扱いやすいものではないかもしれないが、いっしょにやっていくうちに、この強い性格が彼女を世界最高峰のプレーヤーの一角にしたのだ、ということに気づくようになった。そのエネルギーと集中力、頑固さを、選手がプランに献身するために使う方向へと導くのだ。そして、マリーはその考えに賛同していた。
私は選手に、自らの強みを、そしてまた弱みも自覚させる。そして私たちは、強みを最大限に生かすことに集中するのだ。すると、自然に弱みの方も改善されていく。強みだけではなく、弱みにちょっとした注意を払うことで、選手をスムーズに上達させることができる。
マリーに関しては、第一にコート上での動きを最適化させるよう気を配った。もしボールが彼女のストライクゾーンにあれば、(ハードヒットでラリーの主導権を握れるため)彼女を倒すのは非常に難しくなった。しかし、走り回らされたときには、彼女はボールを返すこと、守備的プレーをすることに四苦八苦していた」
――2008年、あなたはサーニャ・ミルザと15週間働き、残りの期間のトレーニングに関しては、彼女の父であり現コーチのイムラン・ミルザに任せていました。ミルザをコーチするときには、どのようなことに焦点を当てていましたか。
「サーニャはアディダスのプレーヤー・デベロップメント・プログラムの一員だった。私が彼女といっしょに働き始める前は、現在も彼女のコーチである父親とともに練習をしていた。当時の私は、単なる援助役以上の存在だったのだが、不運なことにサーニャが多くの故障に悩まされていたため、私たちは望んでいたほど多くの時間をいっしょに過ごすことができなかったんだ。それでも、私たちは特にサービスの向上を目指して練習していた。彼女のサービスは不安定で、ダブルフォールトの危険性が高かった。彼女はすばらしい腕のスピードを擁していたし、今でもそうだ。私はその強みを最大限に活用したかった。
サーニャは、ロジャー・フェデラーのような(下半身の)土台、飛び込むようなサービスをもっていない。ロジャーはスイングスピードを最大限に引き出せる、ニュートラル・スタンスをとっている。私は彼女のサービスの連結部を取り出し、それをよりシンプルにしたかった。実際、サービスのモーションをシンプルにしてから、彼女は大きく上達した。サービスゲームでより安定感をもってプレーできるようになり、良い成績を挙げられるようになった。マヘシュ・ブパシと組んだオーストラリアン・オープンのダブルスで優勝できたのは、すばらしい成就だったと言える」
サイドストーリー(1)
1994年フレンチ・オープン準決勝
スベンの戦略によってピアースがグラフを攻略
グラフを6-2 6-2で粉砕したピアースのキャリア最高とも言える試合の裏には、綿密に練られた戦略と戦術があった。グロエネフェルトはこう振り返る。
「あの試合でマリーは自身のゲームプランに専心していた。シュテフィは強烈なフォアハンドをもっていて、ほぼすべての選手が彼女のバックハンド側のコーナーにボールを集めることで、フォアハンドを避けようとする傾向があった。
しかし、ほとんどの選手たちはシュテフィからフリーポイントを引き出せないでいた。そして、滅多にミスをおかさないあのスライスバックハンドを打たせることができなかったときには、シュテフィはコーナーから逆クロスのフォアを打ち込んできた。
だからこそ、私たちのプランは、他の誰よりも激しくシュテフィのフォア側を攻め、そうすることで彼女の弱い方のサイド、バックハンド側のコーナーを露出させることにあったのだ。こう言うと簡単そうに聞こえるかもしれないが、マリーは本当にしっかりとこのゲームプランに専心し、実行した。私が計画した戦略で、シュテフィを驚かせることに成功したんだ」
「テニスは個人スポーツであり、それぞれのプレーヤーを個々に扱えば、彼らの潜在能力を最大限に発揮させることができる。皆に通用するひとつの方法があるわけではない 」
イバノビッチには断固たる態度をとった
――2007年の6月、あなたはESPNに、「アナが責任者だ。自分のチームの皆とコミュニケーションをとっているのは彼女なのだよ。偉大なプレーヤーは、強い個性を持っている。彼らは、何々をしろと命じる人々ではなく、サポートしてくれる人々をより必要としている」と言いました。アナ・イバノビッチは2008年フレンチ・オープンで唯一のグランドスラム・タイトルを獲得し、世界ナンバーワンになりました。
「アナもまた、アディダスのプログラムから輩出された。私は、彼女がフレンチ・オープンで優勝する以前から、このプログラムで働き始めていたのだ。その頃の私は、まだアディダスの『フライングドクター』だった。私は、アディダスと契約を結んでいる選手たちのサポートをするために雇われ、またサポートを求めてきた他の選手たちを助けることもできる立場にあった。
アナと私は2006年からいっしょに働き始め、彼女は翌年にフレンチ・オープンの決勝、またウインブルドンの準決勝にも進出した。そのためランキングが急上昇したので、2008年は難しい年になるだろうというのはわかっていた。彼女は年末のWTA選手権でも良い成績を上げていたからね。
クレーシーズンに至ったとき、彼女はまた決勝に進出しなければ、というプレッシャーを感じており、それは容易なことではないと自覚してもいた。ロラン・ギャロスに先立ち、彼女はプレーとメンタル面の双方で苦しんでいたのだ。彼女は基本的に、まだエリートプレーヤーとしての自身を確立させようとしている学びの過程にあったんだ。そんな中、アナはベルリンで準決勝に至り――その前年には同大会で優勝していたとはいえ――状況を考えれば、それはすばらしい殊勲だった。しかし、ローマでは1回戦で敗退してかなり落ち込み、フレンチ・オープンのことを本当に心配していたのだ」
――その状況で、フレンチに向けどのようにイバノビッチへ新しい活力を与えたのですか。
「私は断固たる態度をとった。『パニックにどっぷりつかるか、プランを練るか。選択はふたつにひとつだ』と告げた。そして私たちは、彼女のショットの打ち方についてプランAとプランBを立てた。プランAは、ポイントの主導権を握るために彼女の方からフォアを打ち込む、という彼女独自の攻撃的テニス。そしてプランBは、彼女の守備的なスキルと重いトップスピンのショットを使うことで相手にベースラインより後ろに下がることを強い、ポイントを奪うお膳立てをした上でプランAに移行する、というものだった。
彼女がローマで早く敗退したため、幸運にも私たちには準備をするための時間があった。アムステルダムで一週間を過ごし、そこでフィジカル・トレーナーとともに密度の濃い練習を行った。そして、パリではすべての試合を決勝だと思って取り組んだ。そのプランと姿勢のおかげで、アナは彼女にとって今のところ唯一のグランドスラム・タイトルを、勝ち取ることができたんだ」
――イバノビッチのパワーゲームと強い性格から、ベストを引き出すためのカギは何だったのですか。
「誰もがエモーショナルな感情をもっているから、ときには動揺することもある、しかし、しっかりした組み立てとプラン、そして進むべき方向を示してやることで、アナはそれがやるべきことなのだ、という確信を得ることができた。アナとマリーは、どちらもすばらしい人間であるからこそ、強い個性を持っている。しかしそれゆえ、ときに彼女たちは集中力を失ってしまうことがあった。このような選手たちは、自分たちを正しい方向に導き、再び集中させてくれる誰かを必要としているんだ」
――イバノビッチは再びトップ選手になれるのでしょうか。
「もちろんだ。私は100%そう信じている、彼女は以前よりずっと良くなってきているし、優秀なチームに恵まれてもいる。卓越したい者は誰であれ、有能なチームにサポートされていなければならない。彼女には殻を破る準備ができている、と私は信じている」
マコーミックの言葉でコーチとして進歩できた
――あなたはまたカロライン・ウォズニアッキ、メアリー・ジョー・フェルナンデス、アランチャ・サンチェス・ビカリオ、ナタリー・デシー、ソラナ・シルステア、伊達公子、沢松奈生子、アンナ・チャクベターゼ、さらにロジャー・フェデラー、フェルナンド・ベルダスコ、ミヒャエル・シュティヒ、トミー・ハース、ニコラス・キーファー、グレッグ・ルゼドスキー、マリオ・アンチッチらをコーチしてきましたが、いっしょに働くことをもっとも楽しめた選手は誰ですか。
「その皆と働くことを楽しんだよ。でも、このリストにいない選手がひとりいる。それはベッツィ・ナゲルセンだ。彼女といっしょに働くのは、本当に楽しかった。ベッツィはIMGの創設者で最高責任者だった故マーク・マコーミックの奥さんなんだ。彼はこれまで私が目にした中で、もっとも偉大なスポーツ・マネージャーだった。
1993年、私はベッツィ、マークとともに6ヵ月を過ごしたのだが、彼らの双方から非常に多くを学んだ。当時の彼女は大いにダブルスをプレーしていたが、同時にテレビ解説者も務めていた。マコーミック氏が私に『スベン、君はコーチ界においてもっとも才能ある男のひとりだ。君は世界最高峰のプレーヤーたちを指導するようになり、将来、世界的な第一線のコーチのひとりになるだろうと私は信じている。君が学ばねばなない唯一のことは、自分のエゴについて知る、ということだ』と言ったときのことを、今でもはっきりと覚えている。
その言葉で彼が何を伝えようとしていたのか、当時の私にはわからなかった。私には、そこで聞き返す勇気がなかったんだ。でも彼のアドバイスのおかげで、僕はコーチのエゴ、選手のエゴについて学ぼうという気持ちになり、エゴがテニスの主要部分を統治しているのだということを知った。それは私が通り抜けた、本当に重要な学びの課程だった」
――あなた自身のエゴと他の人のエゴについて、何を学んだのですか。
「私は慎ましい人間だ。私は両親の子供時代のしつけから、謙虚であることを学んだ。でも、エゴは謙虚さとはあまり関係がないんだ。それはどちらかというと、次の問いに関わることなんだ。『ある物事は私に関する仕事なのか、プレーヤーに関するものなのか?』『私が目標を達成したいのか、それとも私は選手が目標を達成するのを助けたいのか?』。マークがあの言葉で伝えたかったのは、ときに私が、選手とコートで行うこと、朝食の予定などにかかわる決断において、選手の前に自分を置いている、と彼が感じていたということなんだ。マークは私の決断のベースが私の知識なのか、私のエゴなのかに問いを投げかけていた。彼のアドバイスは、私がどのようにしてコーチとしての仕事にアプローチするか、ということだったんだ。
当時の私は20代半ばで、自己中心的だった。自分のコーチとしての潜在能力を最大限に発揮し、キャリアを築きたいと望んでいた。それは今も変わらない。ただ、もし私が、自分が自己中心的だということを知らなければ、そのことが私の進歩を妨げるだろう、と彼は指摘したんだ」
――あなたの指導でもっとも大きな進歩を遂げたのはどの選手ですか。
「アナ(イバノビッチ)とマリー(ピアース)は、非常に大きな進歩を遂げた。私はミヒャエル・シュティヒとも働き、彼は(1991年に)ウインブルドンで優勝した。彼はその成功が続くのか確信がもてずにいたが、その後、フレンチ・オープン決勝に至り、アントワープでは優勝した(ともに1996年)。1997年USオープンで決勝に進出したグレッグ・ルゼドスキーも、とても上達した選手のひとりだった。
ナタリー・デシーは、私が教えた2004年末から2006年の間に大きな進歩を遂げている。最初に話したとき、彼女は『あなたは、私が自分の真のポテンシャルを発揮することを助けられる、唯一のコーチだと思う』と言ってくれた。これは言うまでもなく、すばらしい賛辞だった。
ナタリーは、一度もグランドスラムのシングルス・タイトルを勝ち取っていないとはいえ、私が教えた中でもっとも大きな進歩を遂げた選手だと言えるかもしれない。彼女は、私たちがいっしょに働いた期間の後に、グランドスラムでダブルスとミックスダブルスで優勝したし、シングルスでも最高ランキング11位に至った」
――これらさまざまなタイプの選手たちを指導した経験から、どのようなことを学びましたか。
「私が学んだ教訓は、『常に耳を傾けなければならない』ということだ。長年にわたり多くの経験を積むと、自分はすべてを知っていると思うかもしれないが、実はそうではない。まだ経験していない、学んでいない新しいことが必ずあるものだ。だから私は、今でも観察し、耳を傾け、それぞれのプレーヤーをひとりの人間として見るという変わらぬ自分の主義に忠実であり続けている。
テニスは個人スポーツであり、それぞれのプレーヤーを個々に扱えば、彼らの潜在能力を最大限に発揮させることができる。皆に通用するひとつの方法があるわけではない。それぞれのプレーヤーにその都度、適応しなければならない、ということを私は学ぶことができた」
サイドストーリー(2)
グロエネフェルトのもとで
もっとも進歩したのはデシー
多くのトップ選手を指導してきた中で、グロエネフェルトが「もっとも進歩した選手」だと語るのがデシーだ。「ナタリーは、大きな野心はもっていたが、実際には決してそこに至れないだろうと思っていた。しかし、彼女はその高みにまで到達したんだ」とグロエネフェルトはデシーへの称賛の言葉を惜しまない。
それはグロエネフェルトが、絶対的な才能の大きさや単純な結果ではなく、いかに選手のポテンシャルを最大限に引き出せるか、ということに重点を置いているからに他ならない。
「選手は学びのプロセスを認識し、物事を決定するタスクに関与する必要がある。そのことが経験となり、成長を速める。コーチに依存するのではなく、自ら学んだことを拠り所にできるようにすべき 」
選手の特徴によってコーチングは変わる
――2012年ITF(国際テニス連盟)コーチング&スポーツサイエンス・レビュー12月の『女子テニス:トレーニング方法論とここまでの進化』という題の記事の中で、モントセラ・フランシン・ベシアナは、コーチを6つのタイプに分類しました。①寛容(放任主義的)、②民主主義的、③権威主義的、④権威主義的かつ寛容、⑤この3つのすべて、⑥状況に応じて変わる。あなたはどのタイプで、それはなぜですか。
「たぶん、最初の3つのすべてのコーチング・スタイルを、ケースに応じて違ったときに使っている。それは選手の年齢にもよるし、性格によっても違ってくる。私はこれまで厳しく(権威主義的で)もあり、寛容でもあり、民主主義的でもあった。それは自分がツアーで担っている役割が何か、アカデミーにおける環境では何か、グループでのコーチングであるか、などにもよる。
グループを教える場合には、独裁的であった方がいい。もし民主主義的にするなら、私がミヒャエル・シュティヒのケースでやったように、選手に合致するやり方を考察するようにする。ミヒャエルは、『僕にぴったり合ったトレーニング・プログラムをデザインしてくれ。僕はそれに従い、ボスは君だ』と言った。だから私が『わかった。君を9時に迎えにいくよ』と言うと、彼は『スベン、僕は10時前には始めないんだ』と答えた。そこで私は『ミヒャエル、プランやスケジュールを作れ、ボスは私だ、と先ほど君が言ったことを思い出してほしい。私は君を9時にピックアップすると言っており、君は10時に迎えにくるべきだ、と言っている。さて、今、君は何時にピックアップしてほしいのかい?』。
私は、『自分がボスであり、君を9時にピックアップするんだ』と告げる代わりに、彼自身に決断させた。私は、ミヒャエルをより大きな問題と対面させたんだ。彼は周りの人々が自分を導くことを望んだが、一方で彼は導かれたがっていなかった。こうした矛盾は、そう珍しいことではない。最終的に彼は『君は正しい。9時にピックアップしてくれ』と言った。このことによって、私たちの関係が確立されたんだ。それから、私は彼と民主的なやり方で働くことができた。だからそれは、選手の年齢や経験、男か女か、グループなのかチームなのか、ひとりの選手とのプライベート・レッスンか、などによって変わってくることなんだ」
――女子選手の場合、より気遣いをもって接しなければならないのでしょうか。
「そんなことはない、とは言えないね。女子プレーヤーからの信頼を勝ち取るには、男子プレーヤーの場合に比べ、より時間が必要だ。ある人々はそれを、『より気遣いが必要になる』と解釈するかもしれない。私はただ、女子プレーヤーに信頼してもらうには時間をかける必要があるため、より辛抱強くなければならない、というふうに考えている」
――ベシアナはこう結論付けていました。「私たちの研究によれば、民主主義的なアプローチは、コーチの間でもっともよく見られるものである。加えて、コーチと、自分の選手を自らの学びのプロセスに参加させたいとする大きな欲求の間には、重要な関係がある。理想的なアプローチは、プレーヤーとコーチの間で決断を下すタスクを分かち合うことから成る」。これに同意しますか。
「全く同感だ。プレーヤーは、自分の学びのプロセスをしっかりと認識できるようにならなければいけない。そして何かを決定するタスクに、自ら関与する必要がある。こういったことは、選手たちにずっと多くの経験を与え、彼らがより速く成長することを可能にする。そこから、ただコーチに依存して頼りきりになるのではなく、自分の目を通して、学んだ教えを依りどころにすることができるようになるのだ」
――オーストラリアのコーチたちへの公開書簡の中で、オーストラリアン・オープンの元ディレクターで、世界クラスのプレーヤーだった現コーチのポール・マクナミーは、オーストラリア・テニス協会の育成プログラムを批判しました。「選手がコーチを直接雇うことを阻害する試み、それは惨事のレシピでしかない。結局のところ、システムはチャンピオンを生み出さないが、人々にはそれができるのだ」。マクナミーに同意しますか。
「マクナミーが言った『システムはチャンピオンを生み出さないが、人々にはそれができる』という点には100%同意する。この話の本質に関しては、私はオーストラリア・テニス協会による方針決定の全体的プロセスに精通していないので、なんとも言えない。ただ、今でもはっきり憶えているのは、私が勧誘されてスイス・テニス協会のヘッドコーチとなり、コーチング・チームを作るためのコーチを探していたとき、スイスの育成プログラムに参加しているプレーヤーは大勢いた。そして、そのひとりがロジャー・フェデラーだった、ということだ。
当時のロジャーは、緊密なケアと、上達を助けるコーチを必要としていたので、私が気持ちを集中させていたのはそれができるコーチを探すことだった。だから、もしマクナミーがプレーヤーの必要に応じてコーチを採用すべきだ、と言っているなら、それには同意する。
ただ、コーチを採用し、すべての選手がそのコーチの指導下でやるべきだ、というようなことはできない。コーチング・スタイルの話に戻るが、民主主義的なコーチは、どのような若手選手ともいっしょに働くことができるかもしれない。だから、そのコーチング・スタイルに応じてコーチを勧誘することは、ある種のプログラムを発展させる助けになる。私が気持ちを割いていたのは、ある選手に適したコーチを探すことだった。私は今、アディダスの育成プログラムにおいても、同様のことをしているんだ」
――あなたが、若手選手と、権力と金を行使しがちなナショナルテニス協会の間の価値ある仲介役として、選手にとって最適のコーチと探す役目を担えたのだから、それは世界中のテニス協会における解決策になりうる、ということでしょうか。
「そのとおりだ」
選手との親密すぎる関係はコーチとしての信頼を崩す
――セレナ・ウイリアムズの重要なヒッティング・パートナーであるサーシャ・バインは最近、USAトゥデイ に「友情と、雇われていることの間の一線は、ずっと昔になくなった。そうなると個人的感情が入ってくるので、ときにことをとても難しくする」と言っています。あなたも、長い師弟関係の間にコーチする選手と非常に親しくなった際、同様のことを感じますか。
「サーシャは非常に長くセレナと一緒にやってきた男で、セレナがプロ選手として活躍することにおいて非常に重要な鍵となっている存在だ。彼はスパーリング・パートナー、コーチ、友人、心を許せる相談役、といった複数の役割を担っている。セレナが誰よりも信頼している人物なんだ。もしサーシャが彼女のチームから抜けたら、セレナにとって彼の代役を見つけるのは不可能と言っていいだろう。私はおそらく、サーシャのような選手との親密な関係を一度も築いたことがない。
ただ、グレッグ・ルゼドスキーとは非常に強い絆で結ばれていた。私は、彼の結婚式での花婿の介添人だったんだよ。これは、私が選手との間で築いた、もっとも親密な関係だった。私たちは毎日話をするわけではないのだが、話すときには、強い絆を感じる。それはむしろ、いっしょに働くことをやめたときに、より強まったのだ」
――あなたは選手と親密になり過ぎないという適切な感覚をもっていますが、ツアーであまりに親密になりすぎたコーチとプレーヤーの関係を見たことがありますか。親密になることの良い点、悪い点は何ですか。
「テニスは個人スポーツだ。年に35週間、世界中を旅するという意味で、孤独なスポーツでもある。選手は、自分のチームとともに旅をする。だから、ある選手と働くとき、必然的に多くのことを分かち合うことになる。個人的な面と、仕事の面があり、仕事の面はより重要なものだから、私は常に選手とある程度の距離を保つようにしている。選手のポテンシャルを最大限に発揮させるために、私はそこにいるのだから、個人的な面は仕事面ほど重要ではない。私は常に、そういう姿勢をとってきた。
しかし、言うまでもなくある状況では、プレーヤーとコーチの関係がそれ以上のものとなることもある。短期の場合には、それがある種の安定性につながることもあるだろう。テニス選手には多くの不確かさがある。望む結果、あるいはある種の収入を得られる保証はない。しかし、もし選手と非常に緊密な関係を築くなら、それは確かさを生み出すことになる。私たちは皆、人間であり、心の拠り所となるもの、確かさを必要としている。そして選手にとっては、それがコーチとの関係を通してもたらされることもあるんだ」
――それは良い点ですね。では悪い点は何ですか。
「関係が親密すぎるとき、コーチは何を見ているのだろうか? 自分の展望だろうか? ちゃんと選手の展望が見えているのだろうか? コーチの観点から見て、親密になりすぎれば、選手に対してだけでなく、自分自身、そして外部の世界に対してもある種の信頼を崩すことになる。そのような行為は、コーチとしてのキャリアに絶対的にネガティブな影響を与えるだろう。だから私は賛成しない。私はプレーヤーとのロマンティックな、あるいは肉体的な関係から、はるかに遠ざかったところにいるようにしている。コーチというのは、決してその一線を越えるべきではない。信頼を崩すことはできないのだ」(次回に続く)
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