80年代の男子テニス界を代表する名選手のひとり。ベースライン後方から繰り出す正確無比なストロークと、パワフルなサービスで勝利を重ねた。グランドスラム8勝を含むツアー通算94勝。若い頃は「チキン」と呼ばれて脆さも見えたが、たゆまぬ努力で上者として君臨し、一時代を築いた。(原文まま、以下同)【2015年7月号掲載】

レジェンドストーリー ~伝説の瞬間~

Ivan Lendl|PROFILE

イワン・レンドル(チェコスロバキア/アメリカ)◎1960年3月7日生まれ。チェコスロバキア・オストラバ出身。1978年プロ転向。自己最高ランキング1位(1983年2月28日)、ツアー優勝94回、準優勝52回。1994年引退。

写真◎Getty Images

機械的で神経質。あまりの強さに‟つまらない王者”とも揶揄されたが、テニスに対する姿勢、取り組みは、まさに王者のそれだった

1970年代から80年代初頭にかけて全世界を席巻したテニスブーム。ジミー・コナーズやビヨン・ボルグ、ジョン・マッケンローといった華やかなスーパースターたちが活躍した直後のテニス界に君臨することになったのが、イワン・レンドルだった。

「天才」と呼ばれたマッケンローが、レンドルについて「あいつはオレの足の指ぐらいしか才能がない」とロにしたことがあった。今であれば問題視されかねないような乱暴なコメントだが、マッケンローは当時から、あるいは今日に至ってもテニスを盛り上げるために、あえて過激な言葉を選んで話しているフシがある。

 また、この種の彼のコメントには、当時のレンドルがアメリカ人にとっては「敵側」であった「東側諸国」のひとつであるチェコスロバキアの出身だったということも考慮しなければならない。

 グランドスラム通算で8度の優勝、0年代後半は不動のナンバーワンという地位を確立したレンドルに、必要以上に「地味」で「冷たい」イメージがつきまとうのは、東西冷戦下という当時の空気感の影響も強い。

 85年に公開されたヒット映画「ロッキー4」の敵役だったイワン・ドラゴの描かれ方が、当時のレンドルに向けられていた視線に近かっただろう。「精密機械」、あるいは「サイボーグ」。現役時代のレンドルのイメージは、そんな言葉で表現されがちだ。

 確かに彼のプレースタイルに派手さはなかった。強力なサービスとベースラインからの強打がベース。鍛え上げたフィジカルを生かしてボールを追いかけ、強打を繰り返す。片手打ちの強力なバックハンドは彼の代名詞でもあったが、マッケンローやステファン・エドバーグのような躍動感はなく、当時のテニスファンたちからはあまり支持されなかったのも事実だ。

 だが、科学的なトレーニングを用い、アスリートとしてのテニス選手というあり方をテニス界に持ち込んだのは男子であればレンドルであり、女子はマルチナ・ナブラチロワだった。いずれもチェコスロバキア出身。「勝利至上主義者」で「面白みがない」という批判を受けても、彼らはあくまでも自らの強さに磨きをかけ続けた。

 エドバーグは「レンドルがテニス選手たちの身体に対する考え方を変えた」と話し、マッツ・ビランデルは「ものすごいハードワーカーで、常にジムでのトレーニングを欠かさなかった。だから、彼は勝者に相応しかった」と話したことがある。

 1980~82年のレンドルは毎年100試合以上を戦い、82年には106勝9敗、勝率92.2%という数字を残している。昨シーズンでもっとも多くの試合を戦ったのはロジャー・フェデラーの85試合で、73勝12敗の勝率は85.9%。30代のフェデラーの数字もすごいが、レンドルのそれは異様だ。この年だけで彼はなんと15大会でタイトルを獲得しているのだ。

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