広瀬一郎_書籍『スポーツマンシップを考える』_連載最終回_スポーツマンシップをどのように教えるか?

あとがき

 スポーツマンシップについていろいろと考えてみました。つきるところ「尊重」の心だ、という先人の言葉は確かに至言ではありましょう。それを認めたうえで、再度「スポーツマンシップ」というものの本質を考え、個人的には以下のような結論に達しました。

 ポイントは本文中にも触れた「真剣さ」と「遊び心」のバランスです。一見矛盾し相いれないように聞こえる二つの要素をどのように調和させるのか、これが最も重要な間題ではないかと考えます。この二つは「スポーツを評価する視点の違い」に由来します。つまり第一の「真剣さ」とはスポーツの内部にいる視点であり、第二の「遊び心」は外部からの視点です。スポーツを行う目的を説明するには、スポーツの内部と外部の両方の視点が必要だと考えます。このいわば「複眼的な視点」の必要性という点こそ、最も本質的なところであり、そこに気づくことに大きな意味があると思います。

 普段私たちが生活し、仕事をする場合のことを思い浮かべてください。何かを行えば、必ずその作業は自己目的化します。例えば、「掃除をする」あるいは「書類を整理する」などは、もちろんそれ自体が「きれいにする」とか「整理する」という目的を持つのですが、その目的にはさらに上位の目的が存在し、個々の目的はその上位の目的と照らし合わさなければ正しさが証明できないのです。おそらくそれは最終的には、幸福につながるかどうかが最終的な規準になるのでしょう。「何が幸福か」という点について議論はあるでしょう。身近な問題ではありませんが、政治的なキャッチフレーズになりつつある「構造改革」なども、自己目的化の良い例でしょう。「構造改革」が進んでいるかどうかは、一つの評価の対象ではあるでしょうが、そもそも「構造改革」には上位の目的があるはずです。「構造改革」は進んだが、世の中は暮らしやすくなっていないのでは、本末転倒ではありませんか。

 このように検討すると、「内部と外部の視点で対象を評価する」という態度を身につけることは、単にスポーツの世界にとどまらず、社会で生活するうえで大変に意義のあることだと言えましょう。なぜならそれは当事者の人生の豊かさを左右するだけではなく、それを身につけた人がどれだけ社会にいるのかが、きっと社会全体の健全さをも左右することになると思うからです。社会に生きるということは、必然的に制度や規範のうちに生きるということを意味します。制度(あるいは組織)は、当初ある目的をもってつくられるのですが、その後必ず自己目的化します。それは避けられない現象です。制度(あるいは組織)の健全さとは、制度(あるいは組織)の内部で従事している個々の人間が、運用において目前の問題解決に注力しながら、その問題解決事自体の価値評価を外部の視点で判断できるかどうかにかかっていると言って過言ではないでしょう。そしてそれは制度(あるいは組織)によって解決し得る問題ではなく、それを可能とするのは、個々の人間の人間性の豊かさにかかっているのです。スポーツマンがGood Fellowと呼ばれ、社会的な要請としてGood Fellowの育成があるというのはそういう意味だと考えます。

2002年10月 広瀬一郎

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