マルチナ・ヒンギス「天真爛漫な頭脳派プレーヤー」

名選手マルチナ・ナブラチロワにあやかって、母からマルチナという名を与えられた。その期待に応えるようにトップへの階段を駆け上がった。トッププレーヤーたちを相手に頭と技で対抗。予測力に優れ、ボールを自由自在に操り、時代を築いた。2度のカムバックを経て、現在も戦いの中にいる。(※原文のまま)【2016年5月号掲載】

レジェンドストーリー〜伝説の瞬間〜

Martina Hingis|PROFILE

マルチナ・ヒンギス◎1980年9月30日生まれ。スロバキア・コシツェ出身。自己最高世界ランキング1位(1997年3月31日)、ツアー通算単43勝、複54勝(2016年3月13日現在)※2017年10月、3度目の引退

写真◎Getty Images、BBM

人懐っこいキャラクターで日本のファンも多かった。テニスの面白さを伝えてくれるプレーヤーだった

97年のオーストラリアン・オープンを16歳3ヵ月で制し、20世紀では最年少でのグランドスラム・チャンピオンになったのがマルチナ・ヒンギスだ。

 通算でのグランドスラムタイトル数はシングルスでは5勝に止まったが、ダブルスでは先のオーストラリアン・オープンを含めて現時点で13勝。98年には別々のパートナーと年間グランドスラムを達成している。ヒンギスのダブルスは基本的に誰と組んでも強い。真の実力者であることの証拠だろう。

 プロの試合に初めて出場したのは93年10月のスイスで開催されたITFサーキットでのことだったが、この大会でいきなり優勝を果たす。まだ13歳になったばかりだった。

 当時はシュテフィ・グラフとモニカ・セレスが頂点を争っていた時代。女子テニスもすでにパワーとスピードの時代に入っていたが、ヒンギスのテニスはその対極に存在する技巧と戦術を極めたものだった。20世紀のテニスが磨き上げてきた古典テニスの集大成が、ヒンギスという存在と言ってもいい。

 小柄で、まだ身体もでき上がっていないジュニア選手が、体格でも実績でも勝る大人のプレーヤーをきりきり舞いさせていたのだから話題にならないはずがない。95年のハンブルク大会では当時5位のヤナ・ノボトナを破るなどして準優勝し、USオープンでは4回戦に進出。ヒンギスは15歳でトップ選手としての地位をほとんど確固たるものとした。

 96年のWTAツアー最終戦が最初のハイライトだろう。決勝に進んだヒンギスの相手は当時のツアーでは絶対的な女王だったグラフ。この年、ローマでヒンギスに初めて敗れていたグラフは、その後のウインブルドン、USオープンではストレートで下していたものの、ヒンギスもUSオープンではベスト4に進出するなど伸び盛りで、世代交代の予感と期待が高まる中での決勝だった。

 当時の最終戦の決勝は5セットマッチ。試合はフルセットまでもつれたのが明暗を分けた。グラフのスライスとフォアハンドで振り回されたヒンギスは、途中で足にケイレンを起こし、最後はほとんど動けない状態で敗れ、コートに倒れて涙を流していた。

 グラフは96年に傷めた膝の故障とその後の手術のため、97年ウインブルドンからグランドスラムを4大会欠場することになっていた一方で、97年のヒンギスは前述したオーストラリアン・オープンの初優勝で弾みをつけ、シーズン開幕からフレンチ・オープンの決勝でイバ・マヨーリに敗れるまで37連勝を記録。3月にはグラフに代わってヒンギスが最年少でのナンバーワンの座に就き、ウインブルドンとUSオープンも制覇してグランドスラムの3冠を達成。名実ともにヒンギスが女王の座に就いた、かに思われた。

 だが、グラフとの因縁対決はグラフが復調してきた99年にふたたび、そして最後の幕を上げる。ヒンギスが唯一取り逃したのがフレンチのタイトルだが、彼女が最年少記録の12歳で制したのもフレンチ・オープン・ジュニアのタイトルだった。

「パリは私にとって特別」と初優勝に向けて目の色を変えていたヒンギスを阻んだのは、やはりグラフだった。第1セットを取ったのはヒンギスだったが、お互いにラインの上を削り続けるショットの応酬で、ヒンギスのメンタルが先に崩れた。

 第2セットであった際どい判定に対して、ヒンギスがグラフ側のコートに侵入してまで抗議すると、「世界一マナー違反に厳しい」パリの観客のほぼ100%がグラフの側についた。グラフの最初のマッチポイントでヒンギスがアンダーサービスを見せると猛烈なブーイングを浴びせられる異様な雰囲気の中で、試合はグラフが勝って通算で22度目のグランドスラム優勝を果たした。

 グラフにとってはこれが現役最後のグランドスラム優勝となり、ヒンギスにとっても最後のフレンチ・オープン決勝となった。11歳差のライバル対決は、これで幕を降ろし、ある意味ではヒンギスの全盛期もこのときに終わったと言えるのかもしれなかった。

99年フレンチ・オープン。母メラニーが寄り添う。ヒンギスの最大の理解者だった

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