マルチナ・ヒンギス「天真爛漫な頭脳派プレーヤー」

ンギスは99年のオーストラリアン・オープンを最後にグランドスラムのシングルスのタイトルは獲得できなかったが、01年10月まではリンゼイ・ダベンポートと交代しつつもナンバーワンの座を維持し続けた。

 これは出場した大会ではコンスタントにベスト8以上に勝ち進み続けていた安定感の高さゆえのことだったが、本格化してきたウイリアムズ姉妹やジェニファー・カプリアティなどのパワーテニスとの対決は、当時のテニスファンを熱狂させた。

 グラフとの戦いが「ライバル対決」だったとすれば、ウイリアムズ姉妹たちとのそれは「新旧のテニス対決」だった。新世紀の主流となるフィジカルなテニスに、タクティカルな古典的なテニスが対抗する。そういう図式の戦いが行われていたのが00年代初頭の女子テニスだった。

 もちろん、当時のヒンギス自身もライバルたちのパワーに対抗しようと、フィジカルを強化していたが、ヒンギスの母親でコーチのメラニー・モリターは「身体が強くなればできることも増えるだろうが、できなくなることもでてくる」と予言めいたコメントをしていたのが印象的だった。

 ヒンギスの強さを支えていたのは、まるで一人でダブルスをやっているかのように、コート中を動いて相手の打つスペースを消しては先回りし、ライジングで時間を奪い取って返球不能の一撃を正確にコントロールするテニスだったが、最初はダベンポートやビーナスに、その後はカプリアティやセレナにも展開する前に強打で押し込まれるようになっていった。

「ヒンギスとはテニスで勝負しない」。それがヒンギス対策のベースであり、決定打でもあった。最初の引退の理由になった両足首の故障もまた、ヒンギスから自在な機動力を奪った原因だったのだろうが、鍛えて強くしたフィジカルが柔軟性を奪い、全体のバランスを崩したとも言われる。

 それでもヒンギスは「女王」としての存在感を最後まで見せつけた。台頭しつつあったウイリアムズ姉妹の強打に対して、初期はうまさで封じ込んだのもヒンギスだった。

 ヒンギスにとって、もう一つのハイライトとなるのは、01年のオーストラリアン・オープンだろう。準々決勝でセレナ、準決勝でビーナスを倒したが、決勝でカプリアティの前に力尽きた。ヒンギスにとっては、これがカプリアティに対する初めての敗戦だった。

「今日はもうパワーが残っていなかった」と決勝後のヒンギスは話している。当時すでに奇跡的と言われていたウイリアムズ姉妹連破の反動は小柄なヒンギスには重すぎたのだろう。そして、その後のテニス界の動向を考えれば、象徴的な顚末でもある。

 実際、02年シーズンを最後にヒンギスが引退すると、その後しばらくはウイリアムズ姉妹同士の決勝が繰り返されるようになっていくことになる。最初の「セレナ・スラム」は02年フレンチ・オープンから始まって、翌年のオーストラリアン・オープンまでの4連勝だったが、02年のヒンギスはフレンチとウインブルドンを欠場、シーズン後に引退している。ウイリアムズ時代、あるいは女子の本格的なパワーテニス時代の到来は、ヒンギスが1年は遅らせたと言ってもいい。

 06年にカムバックを果たし、グランドスラムの舞台にも立ったが、長くは続かなかった。その後はアナスタシア・パブリウチェンコワ、べリンダ・ベンチッチなどのコーチにも就いたが、13年にダブルス限定で2度目のカムバックを果たした。

 現在、サーニャ・ミルザとのコンビに敵はなく、昨年のウインブルドンからグランドスラム3大会連続優勝中で世界1位を独走している。今シーズンで36歳を迎えるが、昔とはまた違ったかたちでテニスと向き合い、プレーを楽しんでいる。

ミルザ(右)と組んで無敵の快進撃

趣味が乗馬だったことは有名な話。馬が大好きだった

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