古今東西テニス史探訪(11)「硬式」と「軟式」、ふたすじの道
国産ボールとラケット
一方、長年の課題だった硬球の国産ボール製造・普及については、明治神宮大会が大きな役割を果たしています。日本庭球協会では1925(大正14)年からボール公認の制度をとることになっていましたが、当初は輸入ボールのみが公認球でした。「例年のスラゼンヂヤー、ライト、又前年よりのダンロップ」(Slazenger, Wright and Ditson, Dunlop)の外にようやく「国産三田土ボール」(Mitatsuchi)が指定されたのは1930(昭和5)年のことです。ただし明治神宮大会の場合は、その前年の1929(昭和4)年、第五回大会から三田土ボールを使用しています。
国産ボールが公認されるようになると、やがて準硬球は役目を終え、1932(昭和7)年の第25回からは全国中等学校庭球選手権でも国産の硬球テニスボールが使用されることとなります。しかし各中等学校では、通常から硬球を使用している学校、硬球と軟球を併用している学校、通常は軟球を使用していて全国中等学校庭球選手権大会前に硬球を使用する学校など、使用ボールの選択はさまざまでした。
その後日本庭球協会では、1934(昭和9)年度より、公認ボールとして「スラゼンヂヤーボール、丸菱ボール、三田土ボール、富士ボール、セントゼームスボール」を指定しています。そのうちの「セントゼームスボール」はイギリスのダンロップ社(現、住友ゴム工業株式会社)神戸工場で製造されていたので準国産、「丸菱ボール、三田土ボール、富士ボール」は純国産と区別しています。丸菱は桑澤ゴム株式会社、三田土は三田土ゴム製造会社で製造されていました。
富士ボールは、のちに昭和ゴム工業株式会社で製造されるようになり、「マウント・フジ(Mt.Fuji)」の愛称で親しまれるようになりますが、1934(昭和9)年当時の製造元は谷口勝季でした。なぜ個人名なのかは不明ですが、谷口は《ローンテニス》(1934年4月号)の「十年の運動具を語る」というテーマ記事で「ボールの苦心」を語っています。彼は15年も前から国産の硬球テニスボール製造を研究目標にしていて、全盛だった米国製ライトを真似たボールを試作して納品したこともあるということですから、美満津商店関係者であった可能性が高いと、筆者は推測しています。この頃になると、美満津商店のテニス分野は目立たなくなっていました。
日本にもスラゼンヂャーが再び輸入されるようになるとスラゼンヂャーを目標にしてフェルトの縫い目やのり付け、プラーグドとプラグレス(ボールの中のいわゆるヘソの有無)などを苦心してようやく商品化したものの、なお改良の余地があったようです。以前は「染井、角一、丸菱も硬球の研究をやっておりましたが、染井以外は準硬球に移り、染井も一年位で中止してしまったようです」とも、谷口は語っています。
国産ラケットの製造史については、フタバヤテニス堂の長谷義明が語っています。長谷が店をもったのは1925(大正14)年で、当時は米国東海岸にあるライトエンドディッソン会社のゴールドスター、チャレンジカップ、ウィナーなど高価なラケットが愛用されていて、長谷らもゴールドスターを模倣してフレーム材1本で楕円形の面にしたラケットを製造していたそうです。
その後に西海岸からカリフォルニアラケットというのが入ってきて、価格をおさえた合板フレームの円形ラケットを製造するようなります。長谷はラケットの変遷を通観して、昔から重さがだんだんに軽くなった点、ガット面が小さくなり中心点が下に下がってきた点、腰(スロート辺り)が堅くなってきた点、グリップが細くなった点、体裁がよくなった点などを挙げ、「昔はドライブで球放れが悪い方がよかったが、最近は球放れが出来るだけ早い所謂スピードのテニスと云ふ事になってきたせいではないか」と分析もしていました。
《American Lawn Tennis》誌に掲載された太平洋南西選手権で決勝に進出した佐藤次郎選手。手にしているたくさんのラケットは、特徴からみてフタバヤテニス堂製か。当時の佐藤選手は同社のラケットを愛用していて、海外でもPRしていたという
1935(昭和10)年ころになると、日本製運動用具も「優秀と廉価」と評価されるようになり、輸出が多くなります。《ローンテニス》(1935年7月号)記事によれば、1月から4月の国産テニスボール輸出は月平均約5000ダースなので、年間ペースでは国内消費の2倍になるのではないかと予測しています。また国産ラケットの1月から4月の月平均は約2600本で、主に横浜のナルトスポーツ、美津濃、イシイカジマヤ、フタバヤなどから輸出されていたそうです。
イギリスでローンテニスが考案されてから約60年、アジアの東の果てに伝来したローンテニスは明治期日本で受容、変容、派生して、津々浦々に浸透してゆきます。
そして大正・昭和初期には分岐して硬式庭球と軟式庭球の二重構造となりましたが、両者は表裏一体となって時代の波をくぐり抜け、その後の日本テニスの発展を支えていくことになりました。
【今回のおもな参考文献】※原本の発行順
・針重敬喜・著『日本のテニス』(1931年11月刊、目黒書店)
・『日本庭球協會十年史』(1932年12月刊、日本庭球協會)
・表孟宏・編著『日本庭球史-軟庭百年-』(1985年12月刊、遊戯社)
・高嶋航『帝国日本とスポーツ』(2012年3月刊、塙書房)
・後藤光将・著「日本におけるソフトテニス競技の全国統括組織の形成と確立」(『体育スポーツ史にみる戦前と戦後』2013年6月刊、道和書院、所収)
・岡田邦子「ボールとラケットの全日本大会前史」(日本テニス協会広報委員会編『三菱 全日本テニス選手権91st(大会プログラム)』2016年10月刊、所収)
※当時の選手の活躍などについては、日本テニス協会ホームページ内「テニスミュージアム」中の「歴史物語」シリーズなどでご覧になることができます。
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