古今東西テニス史探訪(11)「硬式」と「軟式」、ふたすじの道

=ちょっと寄り道=

 1921(大正10)年に初参加したデビスカップ(デ杯)日本チームのメンバーは、商社など在外勤務で海外大会に参加し、実績をあげていた清水善造、熊谷一彌、柏尾誠一郎でした。

 1922(大正11)年に第1回全日本テニス選手権男子シングルス大会が開催されてからは、おもに歴代の優勝者・準優勝者および商社など在外勤務の実績者がデ杯代表になっています。1935(昭和10)年までのデ杯代表選手は、福田雅之助、岡本忠、原田武一、俵積雄、鳥羽貞三、太田芳郎、三木龍喜、安部民雄、恩田貞一、佐藤俵太郎、佐藤次郎、川地実、桑原孝夫、布井良助、伊藤英吉、西村秀雄、山岸二郎、藤倉二郎らでした。かれらは欧米への海外遠征で最先端のテニスを見聞き体験して日本に持ち帰っています。

 逆に欧米からは、カリフォルニア大学の学生チームを皮切りに、米国やヨーロッパ各国のデ杯選手らが来日して、世界の潮流を日本に紹介しました。

 そのような欧米との交流とは別に、アジアとの親善交流が行われるようになったのは、1931(昭和6)年のことでした。オーストラリア庭球協会会長のノーマン・ブルックス(1907年ウインブルドン大会優勝者)が来日してアジア圏のテニスについて協議した際に交歓選手の派遣が具体化します。

 1932(昭和7)年1月には、原田武一、佐藤次郎、布井良助の3選手が招待され、全豪選手権(現、オーストラリアン・オープン)などに出場しました。このとき佐藤選手は準決勝に進出しています。原田、布井選手は帰途に当時の蘭領東印度(蘭印。現在のインドネシア)のジャワなどに寄って在留邦人に歓迎されています。その後もほぼ毎年、日本庭球協会は南方へ選手を派遣することとなりました。

 1939(昭和14)年には、慶應義塾の学生だった鍵富孝吉、山縣龍三が派遣されています。6月20日に神戸を出帆した両選手は、南洋群島のパラオ、蘭印セレベス島(現、スラウェシ島)のメナド、マカッサルに寄港したした後、ジャワのスラバヤ、マラン、スマラン、バンドン、ソロー、ジョクジャ、バタビアでジャワ庭球連盟主催の交歓試合を行い、8月1日には飛行機でシンガポールに渡ってシンガポール、スレンバンで模範試合を行って全試合日程を終了し、8月7日に船で帰途につき、21日に神戸に帰着したとのことです。

 マレー半島では排日気運のため予定していた大会に出場できませんでしたが、蘭印では在留日本人庭球倶楽部およびジャワ庭球連盟の支援もあって大歓迎を受けています。両選手の遠征を記録した冊子『庭球選手南洋歴訪の記』(1939年10月刊、財団法人南洋協会)によれば、両選手の活躍は地元メディアによって好意的に報道され、観覧席は「外人、爪哇人、華僑及邦人」で満員の盛況だったそうです。

表紙と裏表紙をスキャンして左右に並べたが、表紙の左端が切れてしまった。口絵写真のページも同様。内容は日誌形式の記録や両選手による歴訪記とともに「南洋各地主要新聞雑誌掲載の記事」(邦訳)などが掲載されている

 冊子の口絵に載っているのと同じような写真は、筆者の父母のアルバムにも貼ってあります。当時、ジャワには商社や銀行の関係者、そして地域でトコ(雑貨店)を営む在留邦人家族が多く住んでいました。会津出身の父もスラバヤの南西約70kmに位置するジョンバンでトコ・バンダイという雑貨店を営んでいて、テニス用品も取り扱っていたのです。

 母もテニスに熱中していた時期があって、ボールはダンロップを使っていたと言っていました。1931(昭和6)年頃からジャワにも日本製テニス用品が進出するようになっていたので、あるいは神戸のダンロップ製品であったかもしれません。

ジョンバンの現地テニスクラブにて。ネットは斜め編みで、センターストラップも写っている。父は最後列の右から4人目(眼鏡の人)。おそらく1935(昭和10)年頃の写真。ジャワでは、ジャカルタに立派なローンコートがあったが、ほとんどはコーンクリートコートで、スコール(熱帯特有の一時的な雨)がやめばすぐに使用できた

 1932(昭和7)年に南方へ派遣されたことのある布井良助は、1943(昭和18)年にもスラバヤでテニスをしている姿が目撃されています。当時のジャワは日本軍の統治下にありました。戦時中に発行されていた《日本庭球》(《ローンテニス》と《テニスファン》の戦時合併誌)1943年6月号には「マライ、ジヤワのテニス」という投稿記事が掲載されていて、「スラバヤに布井君を日本人倶楽部のコートに見出しました。出征して主計中尉さんなのです」と書いてありました。

 その2年後の1945(昭和20)年7月、陸軍主計大尉になっていた布井はインパール作戦のためビルマ(現、ミャンマー)の戦地にいて、マラリアを患っていました。そして戦線から撤退する途次にピストル自殺を遂げたそうです。このままでは自分の世話をする部下たちに犠牲が出ると判断してのことでした。

 いつもにこやかな笑顔の人で、「スマイリー」とも呼ばれていた布井は1933(昭和8)年にはデ杯選手として遠征し、ウインブルドン大会では佐藤次郎と組んだダブルスで準優勝しています。戦場に赴く前の布井にジャワでテニスを楽しむひとときがあったと知って心慰められても、その後の苛酷な運命を忘れることはできません。

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 さて、連載も第11回で「硬式」「軟式」の分岐点まで探訪することができました。しかし、筆者の個人的な事情で、次回に予定しているテーマの下調べに出かけることができません。残念ですが、連載はしばらく休ませてください。

 再開(再会)のその日まで (^_^)/~

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