全仏決勝進出のパブリウチェンコワ、19歳時のインタビュー「ロシアのプリンセス」


 フレンチ・オープンに今年14度目の挑戦で初めて決勝の舞台にたどりついたアナスタシア・パブリウチェンコワ(ロシア)に、11年前に行ったインタビュー。(以下、当時のまま)混沌とする女子テニス界において大きな注目を集めているのが、 ロシアの19歳、パブリウチェンコワだ。 着実にランキングを上げ、トップ10に手が届く位置に来た。「今はトッププレーヤーたちを倒す自信があるの」。 東レPPOテニスで来日する彼女を直撃した。(テニスマガジン2010年11月号「東レPPOテニスPREVIEW記事」)

インタビュー◎ポール・ファイン 訳◎川口由紀子 写真◎BBM、AP


「ジュニアで世界ナンバーワンになったから、WTAツアーも簡単に勝てるだろうと……」(パブリウチェンコワ)


アナスタシア・パブリウチェンコワ◎1991年7月3日生まれ。ロシア・サマーラ出身。177cm、72kg。ジュニア時代はグランドスラム・ジュニアで単3勝、複4勝を挙げるなど活躍、世界ジュニアランキング1位に君臨した。05年からプロに転向し、07年ウインブルドンでグランドスラム大会デビューを果たす。今季(2010年)は3月のメキシコでツアー初優勝を挙げると、7月のイスタンブールで2勝目をマーク。世界ランキングは単22位、複68位(2010年9月の情報)


女の名前は舌を噛みそうであり、彼女のゲームもやはり対戦相手にとっては、つかみどころのないものになりつつある。

 アナスタシア・セルゲイブナ・パブリウチェンコワは早熟な14歳として、オーストラリアン・オープン・ジュニアのタイトルを獲得したことで、突如、国際的テニスシーンに浮上したが、それ以来、次世代のロシア人スターとして大々的に宣伝されてきた。「パブリウチェンコワは同国人のスベトラーナ・クズネツォワを思い起こさせるような多彩でパワフルなゲームを持っており、同輩のロシア人マリア・シャラポワの殺人者としての本能を持っている」とUSAトゥデイは書いた。今年、第1セットを取った場合の試合の行方は28勝0敗という完璧なる記録は、彼女の評判を証明している。

 USオープンを迎えるにあたり、キャリア最高の22位にランクされているものの(19歳の彼女は世界で最高位のティーンエイジャーである)、06年の世界ナンバーワンジュニアからプロの世界への移行は決してスムースではなかった。とはいえ愛らしい177cmのブロンド娘はたいへん前向きな態度を持っており、テニスは「私にとって理想的な仕事」と言うほどだ。

 USオープンの前週、ニューヘブンで開催されたパイロット・ペン・テニス・トーナメントでのインタビューの間、友人たちから「プリンセス」と呼ばれる彼女について、私はより多くのことを知ることができた。

多才で何でもできた
グラフが好きだった

——ロシア南東部にあるボルガ川に沿った大きな産業都市サマーラで育ったそうですが、どんな生活でしたか?

「美しい生活だったわ。私は6歳のときにテニスを始めたの。一生懸命に頑張って練習をしたけれど、楽しかった。だってテニスが好きだったし、テニスコートには友達がいっぱいいたから。だから素晴らしかった」

——あなたのご両親、セルゲイとマリナについて話してください。そしてテニスと人生について何を教えられましたか?

「2人ともかつては偉大なアスリートであり、祖父母もそうだった。母は水泳の選手で父はカヌーの選手だった。父は1980年のオリンピックに出場することになっていたけれど、ボイコットの影響で出場は中止になってしまった(注◎モスクワオリンピックは前年度のソ連のアフガン侵攻により、アメリカをはじめとする西側諸国からボイコットされた)。祖母はバスケットボールのソ連のナショナルチームの選手で、祖父はバスケットボールの質の高い審判員だった。私の両親はコートでテニスをコーチしてくれることに加え、人生の多くのことを教えてくれたわ。特にしつけや一生懸命に練習することの大切さを」

——子供の頃、大好きなテニスプレーヤーはいましたか? そしてなぜ好きだったのですか?

「私はシュテフィ・グラフが好きだったわ。彼女は多才で、何でもできたから。彼女は偉大なアスリートであり、偉大なテニスプレーヤーだもの」

——2006年にシングルス、ダブルスともに世界ナンバーワンジュニアとなりましたが、そこからWTAツアーの試合に勝てるまでの移行期を経験する上で、最大の問題は何でしたか?

「私にとってタフな時期だった。自分に多くのプレッシャーをかけていたから。ジュニアでナンバーワンだったあと、WTAツアーの試合に勝つのは簡単なことだろうと思っていた。これまでと同じように高いところにランクされるだろうと思った。もちろんそんなにうまくいかなかったけれどね。(安定して勝てるようになるには)最初は多くの時間と多大な努力を必要とした。それにこれまでのプレーの仕方を変えなくてはならなかったから、本当にタフな移行だった。しばらくはとてもフラストレーションが溜まったわ」


2010年3月のメキシコの大会で、第3シードから勝ち上がって悲願のツアー初優勝

——パトリック・ムラトグローが07年6月から09年8月まで、パリにある誉れ高い彼のアカデミーであなたをコーチしました。アカデミーのウェブサイトで、あなたは「悪夢の中にいて……パトリックが目を覚まさせてくれた」と言っていました。それは正確にはどういう意味ですか?

「本当は、そんなことは言わなかったわ。あれを彼のウェブサイトに載せようと決めたのは彼のメディア・ディレクターだった。私がそのアカデミーに行ったとき、まだ世界でナンバーワンのジュニアだったから、悪夢の中にいたと言うのは間違っている。WTAツアーのシングルスの試合をあまり勝てなくてフラストレーションが溜まっていたというのは確かだけど。でも、それでもWTAツアーやITF大会ではいくつかのシングルスで準々決勝や決勝に進んだし、ダブルスでいくつか優勝していた。そしてランキングを持っていた。トップ20やトップ50ですら入っていなかったけれど、それでもいくつかの試合で勝っていたの。だから悪夢の中にいたなんてことはないわ」

——09年のインディアンウェルズの大会について話してください。そこであなたは当時世界3位のエレナ・ヤンコビッチを6-4 6-4で破り、10位のアニエスカ・ラドワンスカを7-6 6-4で破り、ツアーで初めて準決勝に進出しました。そのことはあなたのキャリアでどのような意味を持ちましたか?

「17歳のときで、(当時の)私にとって最高の27位に到達したわ。それはビッグな出来事だった。今や、トッププレーヤーにも勝てるし、若くてこんなすばらしい結果を出せると感じ、大きな自信を与えてくれた。でも準決勝に到達したことで、いくらかリラックスしてしまったの。そのようなことが続けばいいなあと思った。だから結果が、そのあと同じように上手くいかなくなったとき、目が覚め、ふたたびハードワークを始めた。これまで以上にハードに。毎週、いいプレーをしなくてはならないことを学んだわ」

——そして09年9月、あなたは東京で行われた東レPPOテニスでビーナス・ウイリアムズを7-6 7-5で破りました。それから1週間後の北京でもふたたびビーナスを3-6 6-1 6-4で下しました。その2つの番狂わせによる勝利は、あなたにとって何を証明しましたか?

「東京では、実は独りぼっちだったの。私のチームの誰も同行しなかった。だから予選を通過し、1回戦に勝ってビーナスと対戦したとき、その試合をできるだけ楽しもうと思ったの。前年にビーナスと対戦して、たったの1ゲームしか取れなかったから、負けても失うものは何もないし、ただいい試合をすればいいと思った。そしてもちろん彼女に勝とうと頑張った。彼女を破ったあと、ものすごくうれしかったわ。それから翌週また対戦して、彼女は非常に経験豊かなプレーヤーだから、もっと攻撃的になるだろう、もっとタフな試合になるだろうと思った。確かによりタフな試合になったけど、自分にこう言って聞かせたの。『彼女を一度破っているのだったら、また破ることができるはずだから、そうできると信じなくてはいけない』と。それが2度目の勝利につながったのね」


2009年の東レPPOテニスで「太巻き寿司作り」に挑戦。左からパブリウチェンコワ、マグダレナ・リバリコワ(スロバキア)、アンドレア・ぺトコビッチ(ドイツ)、リー・ナ(中国)

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