Bud Collins(バド・コリンズ)追悼企画|世界でもっとも有名で、もっともテニスを愛したジャーナリスト

故バド・コリンズ(2009年7月、インディアナポリスにて撮影)


 2016年3月、テニス界は惜しい人材を亡くした。バド・コリンズは世界でもっとも有名で、もっともテニスを愛したジャーナリストだった。友人でもあった、同じくテニスジャーナリストでテニスコーチでもあるポール・ファインによる追悼記。(2016年6月号掲載記事)

文◎ポール・ファイン 翻訳◎木村かや子 写真◎Getty  Images

(※掲載時のまま)
バド・コリンズ(写真左)◎1929年6月17日、アメリカ・オハイオ州生まれ。同州べレアの大学を卒業後、ボストン・ヘラルド紙でスポーツ記者の仕事を本格的に始める。ボストン・グローブ紙に移ったのち、テレビ解説も務めるようになり、USオープンやウインブルドンの中継も担当した。世界各地の新聞やテニス誌にも執筆。1994年には国際テニス殿堂入りを果たす。2016年3月死去。公式サイト http://budcollinstennis.com/


故バド・コリンズ(2009年7月、インディアナポリスにて撮影)


「ある独創的なアメリカ人」

解き放たれた才能

 2016年3月3日に86歳で亡くなったアーサー・ワース〝バド”コリンズ・ジュニアは生涯を通し、テニスとの恋を楽しんだ人だった。そしてテニスほど、メディアのスーパースターを愛し返したスポーツもなかった。昨夏、USオープンはメディアセンターにバドの名をつけることで、彼に敬意を表したのである。

 この恋はバドがまだ13歳の頃、オハイオ州の小さな町ベレアで始まった。幼きバドは野球仲間とともに座り込み、ニューヨークのフォレストヒルズから送られてくる1942年のUS選手権(USオープンの前身)の決勝、テッド・シュローダー対フランキー・パーカーのラジオ放送に耳を傾けていた。

 その初めてのテニスのラジオ中継を聞きながら、バドはフォレストヒルズとは一体どんなところだろうと想像を膨らませ、芝の上のテニスはどんなものなのか頭の中に思い描こうとした。そしてその10年後、US選手権のラジオ放送はテレビ放映に置き換えられ、その新しい媒体(テレビ)が後に、新聞でのジャーナリズムがしたこと以上に、バドを有名にすることになるのである。

 1955年、バドはボストン大学で卒業論文の準備をする傍ら、ボストン・ヘラルド紙で新聞記者として最初の仕事を手に入れた。それは相乗効果をともなう運命的出会い、いや完璧な結婚とでも言うべきものだった。テニスは停滞期間でメディアの注目を引きつけてはいなかった。当時、新聞社のパートタイムの使い走りで記者の階級制度の一番下にいたバドは、マサチューセッツ女子選手権の取材をするようボスに命じられたとき、興奮に震えた。そして1959年、バドはボストン・ヘラルド紙の主要なスポーツ・コラムニストになっていたのである。

 1963年にボストン・グローブ紙に移り、そこでスポーツと旅のコラムを書くようになると、バドの多様な才能は解き放たれた。テニスから野球、ザイールで行われた有名なモハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの〝キンシャサの奇跡”をはじめとするボクシングの試合、そして銃弾を受けることになったベトナム戦争まで、ありとあらゆる分野の取材をした。特にバドの鋭敏でスパイスの効いた楽しいテニスの記事は、当時やや退屈と見られていたテニスを明るく照らしたのである。

 このカラフルな性格とパイオニアの精神はテレビにも、うってつけだった。1963年、バドはボストンの教育チャンネル、WGBHに乱入してトレーラーからテニスの試合の中継をし、その翌年にはNBCのためにUS選手権の報道をした。このテニスのオープン化前の時代には、US選手権の試合は毎日テレビ放映されていたわけではなかったのだが、ボストンに近いロングウッド・クリケット・クラブでのナショナル・ダブルスは連日放映され、バドは解説を一手に引き受けていた。CBS、NBC、そしてPBSでの彼の放送はアメリカにテニスブームが訪れる70年代半ば前に、テニスの人気向上の手助けをしていたのである。

 バドはパイオニアであるだけでなく、『テニス・プレーヤーの教育』『イボンヌ、その躍進』『プロたちとの生活』、そして究極のテニス百科事典である『トータル・テニス』という絶賛された4冊のテニス本を書いた歴史家でもあり、また非公式のテニスの移動大使でもあった。

 バドの長年の友達で、元ニューイングランド・ローン・テニス協会の会長ハリー・キルシュは、1960年代に起きたオープン化へのバドの強力なサポートを、こう振り返る。

「オープン化が是認された重要なUSLTA(現在の全米テニス協会)会議の直前に、バドはスポーツ・イラストレイテッド誌上でプロによるオープン化についての原稿を書いたんだ。その中でバドはテニスのオープン化に賛成した最初の会長、ボブ・ケルハー就任の前のUSLTAの幹部たちのことを〝年老いた山羊たち(年をとった頭の固い愚か者の意味)”と呼んだ。言い換えれば、バドは1968年にオープン化を実現する推進力となるためにペンの力を使ったんだ。バドは常にすべてにおいて進歩的な人だった」

 大学の体育ディレクターの息子で、中産階級の出身でもあったバドは1960年代、特権階級的であり、ある意味で排他的なロングウッド・クリケット・クラブのメンバーとしてクラブに有色人種のメンバーがいないことを猛烈に批判した。

 1968年、バドはもうひとりの開拓者でグランドスラム大会のタイトルを獲った初のアフリカ系アメリカ人となった選手、アーサー・アッシュに自分がメンバーとなることのできないクラブ(フォレスト・ヒルズのウエストサイド・テニスクラブ)で優勝したことについて、どう感じているかと尋ねた。1973年には大きな注目を集めたアッシュの南アフリカへの旅に同行しアパルトヘイトによって迫害され、残忍な扱いを受けていた黒人たちに、アッシュがいかにして、たとえ一時的にであれ、誇りと尊厳をもたらしたかについて重要な記事を書いている。

 バドはまた、例えば大きな欠陥があったATPツアーのベスト14ランキング・システムなど、見当違いのプロテニスのリフォームを批判した。これは一年に出た大会中、もっとも成績の良かった14大会のみの獲得ポイントでランキングを決めるというもので、ある選手たちにとって10~15大会の結果を投げ捨てることになる計算法だったからだ。

 バドは、このベスト14ランキングの理論はボストン・レッドソックスの一塁手、モー・ヴォーグンが1試合に5度打席に入りながら一度もヒットを打てなかった最悪の記録を打率の計算でノーカウントにすること、あるいはレッド・ソックスの連敗の時期をランキングの計算において対象外とすることと同じであるという、実に適切な例をあげてシステムの欠陥を指摘したのだった。

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