Bud Collins(バド・コリンズ)追悼企画|世界でもっとも有名で、もっともテニスを愛したジャーナリスト

故バド・コリンズ(2009年7月、インディアナポリスにて撮影)




「バド・コリンズほど、歴史的重要性と永続的インパクト、そしてテニスへの無限の愛を持つ人物はいなかった」(ビリー・ジーン・キング)


へぼ文士でお喋り屋

 バドは常に明るさを保ち続けていたとはいえ、人生で多くの逆境に苦しめられてきた人でもある。バドの最初の妻は1978年、彼があまりに旅をし過ぎているという理由から彼と離縁した。バドはスポーツライターのジュディ・レイシーとの関係を一目惚れと呼んだが、ジュディはその2年後、脳腫瘍で命を落とした。同窓会で再会した高校時代の恋人マリー・ルー・バーナンとの結婚は4年しか持たなかった。なぜなら彼女もまた脳腫瘍に倒れ、亡くなってしまったからである。

 しかし、カメラマンのアニタ・ラスリング・クラウセンとの最後の結婚は、彼の死まで続いた。アニタは彼との関係を〝マジカル”と表現する。スポーツ・イラストレイテッド誌の有名なジャーナリストでもあるフランク・デュフォードは、テニス・チャンネルで「バドはテニスを支え、テニスは彼の人生を支えた」という言葉で、バドの人生の様相を非常にうまく要約した。

 もしかしたら、その驚くほどカラフルな服装も彼が元気を保つ助けとなっていたのかもしれない。バドはクリーブランドで行われた1966年のデビスカップのときから、彼のトレードマークとなった、派手な色彩のズボンを身につけ始めた。バドはそれを「着ることができないようなものを着る」試みなのだと表現していたものである。

 人目を惹く柄の特別あつらえたズボンを50着も持っていて、各ズボンに特別なストーリーがあるのだと言っていた。その文章やテレビ解説と同様に、これらのズボンは他の人々を楽しませて元気づけた。クリス・エバートは、たとえグランドスラム大会決勝でマルチナ・ナブラチロワに痛恨の負けを喫したときでさえ、「バドのズボンを見ると、すぐに元気が出たわ」と回顧している。

 バドは決して自分のルーツや、友達、知人たちを忘れはしなかった。それはバドの膨大な人気と、バドがいかにしてテニスを宣伝促進したかを理解するための、もうひとつの鍵でもある。長年の友人だったバッキー・アダムスは、こう振り返る。

「バドはテレビで試合の解説をしているときに、通常は名もないまま見過ごされるような人々について、必要もないのにわざわざ言及していたものだった」

「彼は〝アウト”のラインコールは、並外れた地元プレーヤーだったジェーン・スミスという審判によって作られたのだ、などと指摘したりしたし、他にも多くの地元の人々の名を話に出した。彼は多くの地元のテニス関係者に触れれば、その地域でテニスの人気をアップさせる助けになると知っていたんだよ」

 常に謙虚さを持ち続けていたバドは自分のことを『へぼ文士でお喋り屋』と呼ぶのが好きだった。このへぼ文士――――いや、より正確に言うと話し上手な比類なき言葉の細工師は1991年、テニス・ウイーク・マガジンによって世界一のテニスライターとの評価を受けた。私の意見では1922年から1968年まで活躍したニューヨーク・タイムズ紙の記者アリゾン・ダンジグ、そしてバドは20世紀でもっとも素晴らしい2大テニスライターだ。2006年、バドはアメリカでもっとも栄誉あるスポーツ・ライティングの賞、レッド・スミス賞を受賞している。

 バドは最高のTVテニス・コメンテーターとも見なされていた。このTVブースの生粋のおしゃべり屋は、2007年に国立スポーツキャスター&スポーツライター協会の名誉の殿堂に祀られた。バドのウイットに富んだ知識豊かな観察は、新世代のテニスファンの心を惹きつけた。ナブラチロワはテニス・チャンネルに「当時の人々はバドが何を言うのか聞きたいがために、テニス放映を見ていたものよ」と語っている。

 しかし、バドの愛嬌のある性格も同様に重要なものだった。「バドはカラフルで好感の持てる人物だった」とNBCスポーツ・プロデューサー、ドン・オルメイヤーは思い出す。「このふたつはテレビでもっとも重要なことだからね」。

 バドは1979年にNBCが『ウインブルドンで朝食を』という最初のウインブルドン生中継を始めたときに同番組に出演していた。それはアメリカ東海岸では午前9時に、西海岸では6時に始まる放送だった。ところが、この放送の出だしは大きな問題に直面する。ウインブルドンの伝統はビヨン・ボルグとロスコ・タナーの男子シングルス決勝を午後2時きっかりに始まらなければならないと定めていたが、NBCは選手紹介の時間もなしに、すぐに試合の最初のポイントから放送を始めることができなかったからである。

 面白い逸話を語るのが好きだったバドは、当時のタナーのマネージャーだったドナルド・デルがタナーに2時からの5分間、トイレにこもってドアには鍵をかけておくように言いつけたのだと後に明かしていた。そのため、このときだけはウインブルドンは午後2時きっかりには始まらなかったのだった。

 もし模倣することが一番心の込もった褒め言葉なら、他のライターやコメンテーターたちはバドのことをあれこれ真似ようとしないではいられなかったはずだ。ちなみにバド・コリンズUSオープン・メディアセンターにある飾り板の碑銘には「ジャーナリスト、コメンテーター、歴史家、師、友」と書かれている。

「彼の文章、彼の鋭い観察力、そして物事を楽しむセンスが、どのようにテニス報道をするかについての、私自身の考えの核を形作ったの」とアメリカ有数のTVテニス解説者、マリー・カリロは言う。

「彼は心からテニスと、テニスが彼に与えた人生を愛していて、彼の喜びは、そばにいてはっきりと感じとれた。彼は特別な人であり、他の誰をも特別と感じさせてくれる人でもあったわ」

 ジャーナリストであり、放送界の偉人で、何より良い人間であったバドはテニス界への、そしてこの世界への、無比の贈り物だった。他の多くの友達や崇拝者たち同様、私は彼がいなくなってしまったことをとても寂しく思う。バドのような人物は二度と現れることはないだろう。


2009年のUSオープン直前、ウイリアムズ姉妹にインタビュー



USオープンのプレスセンターは「バド・コリンズ・USオープン・メディアセンター」という名称に



2013年ウインブルドン。最後の妻アニタと




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