ダニエル太郎「50の質問」自分からポイントを取りに行ければもっと上を目指せる|Player File 8


「50の質問」で選手たちの素顔に迫るスペシャルインタビュー企画。今回、登場してくれるのはツアータイトルを持ち、スタイルの進化でさらなる飛躍を誓うダニエル太郎。その胸の内に迫っていく。(テニスマガジン2021年2月号掲載記事)

(※掲載時のまま)
だにえる・たろう◎1993年1月27日生まれ。アメリカ・ニューヨーク出身。7歳でテニスを始め、13歳でスペインに移住。2009年にプロ転向後もスペインを拠点に腕を磨く。14年のUSオープンでグランドスラム初出場、15年にトップ100入りを果たすと、16年のフレンチ・オープンでグランドスラム初勝利、リオデジャネイロ五輪でベスト16に入った。18年のイスタンブールでツアー初優勝を飾った。自己最高は単64位(18年8月27日付)、複351位(19年5月27日付)、最新ランクは単117位、複590位(12月14日付)。エイブル所属

取材・構成◎杉浦多夢   写真◎菅原淳、BBM、Getty Images、本人提供

「僕も自分からポイントを終わらせるようなプレーができるようにならないと」

Q1 テニスは何歳から始めましたか?

「両親が埼玉のむさしの村ローンテニスクラブで週末にテニスをしていたので、一緒に自然と始めました。でも小さいときは妹の可菜のほうが全然うまかったです(笑)」

Q2 森林ロングウッドテニスクラブに通うようになったきっかけは?

「お父さんの仕事が名古屋に移って、10歳から13歳までお世話になりました」

Q3 テニスにはすぐにはまりましたか?

「7、8歳の頃は全然センスがなくて、プレーヤーコースにも入れなかったくらいだったので、最初はあまり好きではなかったですね(笑)。でも、小さいときからあきらめない頑張り屋だったので、少しずつうまくなって、それにつれて『もっとテニスがやりたい』と思うようになっていきました」

Q4 森林ロングウッドで指導を受けた大島伸洋コーチはどんな存在ですか?

「大島コーチにはハードワークの大切さを学びました。むさしの村でも、スペインに行ってからも、厳しいコーチたちに育てていただき、今の僕の自分に対する厳しさがある。いつでも頑張らなきゃということを自然に学ぶことができました」

Q5 スペインに移ったきっかけは?

「これもお父さんの仕事がきっかけです。13歳のときですね。ダビド・フェレールもいたバレンシアの『テニス・バル』で練習をしていました」

Q6 ジュニア時代にバレンシアで学んだことは?

 「僕は子供のときからディフェンシブなプレーヤーで、ボールをつなげてミスが少ない選手でした。それをレッドクレーのスペインでの練習が強化してくれた。僕のテニスが確立した場所だと思います」

Q7 クレーコートのむさしの村ローンでテニスを始めたことも大きかったですか?

「もちろんそれが原点ですね。レッドクレーとはやっぱり違うんですけど、体重が軽い子供にとってはどのクレーも似たようなものだから(笑)」


ジュニア時代から慣れ親しむクレーがテニスの原点だ

Q8 2017年に拠点を日本に戻した理由は?

 「スペインで学べるものは十分に学んだかなと。僕のコーチはスペインの中でもまさに『スペイン・テニス』という人だったので、世界のテニスが変わり始めている中で、僕も自分からポイントを終わらせるようなプレーができるようにならないとレベルアップできないと思って、環境を変えることも必要だと思いました」

Q9 日本に戻ってきてすぐに慣れましたか?

「プライベートライフは充実しました。スペインで友達はアカデミーの人ばかりだったので、どんどん入れ替わってしまう。ちょっと寂しくなり始めて……ずっと寂しかったんですけど(笑)。そろそろ帰るときなんだなという感じでしたね。でも東京はすごく忙しい街だから、たまにそれにのみ込まれそうになる。ラッシュの電車とか、乗るだけでウワーッてなっちゃう(笑)」

Q10 ラケットのメーカーは?

「テニスを始めたときからバボラ、バボラの中でもピュアドライブ。ほかのラケットを使ったことがない。体の一部になっているから、ほかのラケットには絶対に変えられないです」

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