WIMBLEDON LEGEND STORY〜ウインブルドンを彩った選手たち〜

2020年6月29日。華麗で優雅な芝の戦いが、幕を開けるはずだった。しかし、その時が訪れても ウインブルドンは静寂に包まれるばかり――。最古の歴史を持つ伝統のグランドスラムは新型コロナウイルスの影響により、2度の大戦時を除けば初となる中止を余儀なくされた。本来なら大会詳報号をお届けするはずが、それができない。そこで、大会が生んだレジェンドたちを中心に、ウインブルドンを振り返っていく。(2020年9月号掲載記事)


大会初日となるはずだった2020年6月29日。オールイングランド・クラブは静けさに包まれていた。入口の横には「今夏はお休み」のアナウンス。クラブ自体はオープンしているものの、伝統のグランドスラムは中止となった

文◎武田 薫、杉浦多夢 構成◎編集部 写真◎BBM、Getty Images

LEGEND PLAYER1
ロジャー・フェデラー
男子シングルス優勝 2003〜07、09、12、17年




史上最多のグランドスラム20度制覇を誇るオールタイム・チャンピオンにとっても、 やはり史上最多8度の優勝を重ねるウインブルドンの舞台は特別なものであり続けている。 聖地に愛された男の歩みとは――。

「フェアプレー、テニスへの愛情、相手への敬意。それは僕が子供の頃から両親に言われてきたこと」


記念硬貨の意味 

 スイス造幣局は昨年暮れ、ロジャー・フェデラーの記念硬貨を発行した。バックハンドのフォームの裏に「2020」と刻まれた20フラン銀貨は前売り日に3万3000枚が完売。1月の2万2000枚、4月の4万枚も瞬く間に世界中のファンの財布に吸い込まれた。ヒーローは舞台の外でもストーリーを作るもので、記念硬貨にも尾鰭がついた。

 なぜこの時期に記念硬貨が発行されたか――ロジャーが今年のウインブルドンで引退するという噂があったのだ。実はもう一枚、別デザインでグレードアップした50フラン金貨が5月7日に発行される予定で、それが急遽キャンセルされた。造幣局は新型コロナウイルスの影響と広報しながらも次の日程は伏せ、噂が噂を呼ぶことになる。

 フェデラーは今年のオーストラリアン・オープンでノバク・ジョコビッチに敗れ、2月19日に右膝を手術している。その結果が思わしくなく、3月のマスターズ2大会、ヨーロッパのクレーシーズンを欠場してウインブルドンに備え、そこで引退へ……そのシナリオがコロナ騒動で変わった。

 4月1日にウインブルドンが中止を決定。ロジャーは事前に知らされていたはずだが、そこで再手術に踏み切って今度は経過が順調だった。コロナが世界的パンデミックに発展する最中の6月10日、今季はプレーせず来シーズンに備えると正式表明、金貨はお預けに……。

 果たして引退記念の硬貨だったかはさておき、ある人物の生前に記念硬貨が発行されるのはスイスでは初めてで世界的にも珍しく、そもそも生前に銅像を建てるのも日本くらいの話である。残りの人生でスキャンダルでも起こしたら、貨幣の信頼に傷がついてしまう。超特例と言っていい記念硬貨は、ロジャーの足跡がほかならぬウインブルドンのセンターコートに刻まれたことに由来するのだろう。

 友人のタイガー・ウッズのスキャンダルが明るみに出たのが2009年暮れだった。当時は同じナイキの顔として、ともにロールモデルとされたロジャーはこう話した。

「模範にされているからと言って、自分を変えようとは思わない。コート上で自分の本性を隠すことなんかできない。それでも自分を好きな人がいればうれしいし、嫌いなら仕方がない。模範とされる大きな理由は、フェアプレー、テニスへの愛情、相手への敬意だと思う。そうなら、それは僕が子供の頃からずっと両親に言われてきたことだ」

新旧王者の激突

「ピートは自分にとって雲の上の存在だった。 僕は少し大人になったと思う」

 フェデラー家の人々は、妻のミルカ以外は目立たない。たまに家族席に座ることもあるが、ジョコビッチやナダルの両親と違い、実に控え目な両親である。エンジニアの父は南アフリカで仕事をしているときに母親と知り合い、ロジャーの英語が流暢なのはそのためだし、アフリカの子供たちへ教育基金も起ち上げている。しかし、地道な家庭に育ったからといって息子が初めからジェントルマンだったわけではなかった。むしろ同世代のマラト・サフィンに負けず劣らない暴れ者だった。

 思い出すのは、2000年のUSオープン、アームストロング・スタジアムで行われたフアン カルロス・フェレロとの3回戦だ。激しい攻防の末に、5-7、6-7、6-1、6-7で競り負けた。19歳だったフェデラーは癇癪を起してラケットを投げつけ、冷静沈着なフェレロの手玉になっていた。

 故白石正三は、現役時代に一緒にツアーを回ったオーストラリアのピーター・カーターにフェデラーを紹介されたことがあったという。ロジャーが16歳でウインブルドン・ジュニアを制した頃のことだ。カーターはスイスに渡って9歳からロジャーを指導していた。

「ピーターは、手がかからない選手だと言っていましたね。こうするんだと教えると、すぐその場で何でもやれてしまうと驚いていた」

 余りにもテニスが好きで自分のミスを許せなかった、ロジャーはそう昔を振り返るが、激しい気性が素質の開花を妨げる例は、かつてはマルセロ・リオス、最近ではニック・キリオスなど挙げればきりがない。そんなフェデラーの転機となったのが2001年のウインブルドン、ピート・サンプラスとの4回戦だった。

 サンプラスは1990年代のウインブルドンで不敗神話を築き上げ、93年から2000年までの8年間に優勝すること7度、4連覇で31連勝。文字どおり芝の帝王との最初で最後の対決は、手に汗握る7-6、5-7、6-4、6-7、7-5。3時間41分の攻防を展開したまさに新旧王者の激突だった――ロジャーは、ウインブルドンのフルセットでは負けたことのなかったサンプラスを王座から引きずり下ろした。


2001年、王者サンプラスに勝利したことでフェデラーはウインブルドンに愛される存在へと変貌を遂げていく 

「最後まで冷静に戦うことができたと思う。ピートは自分にとって雲の上の存在だった。そんなヒーローを前に、しかも初めてのウインブルドンのセンターコートの大観衆の前で、叫んだりラケットを投げつけたりなんかできっこない。僕は少し大人になったと思う」

 周囲はこの機を逃さず、それまでのラフないでたちを改め、髭も剃るなど、王者らしくそしてジェントルマンに相応しいコーディネートを展開していく。02年8月にコーチのカーターが事故死というショッキングな出来事も、過渡期のロジャーを一回り人間的に大きくしたかもしれない。2003年、決勝でマーク・フィリポーシスを倒して初優勝。よもやそこから5連覇、通算8度の優勝を果たすとは誰も想像しなかったが、ビヨン・ボルグやサンプラスがそうだったように、ウインブルドンのセンターコートがロジャーを変えていったのだ。

ウインブルドンへの報告

 人を惹き付ける力とは恐らく、人を刺激し鼓舞する卓越したエネルギーだろう。ロジャーとウインブルドンの相関関係は、テニス界に実に見事なサークルを築き上げることになった。ナダルとの初対戦はウインブルドン初優勝の翌年、04年のマイアミで、2人の切磋琢磨にジョコビッチが割って入ったのが06年のモンテカルロ。プレースタイルの異なる若いライバルの出現が、ロジャーのプレーに磨きをかけ、テニスのレベルを格段に引き上げ、ウインブルドンはこの三つの虹に夢を見続けてきた。

 ロジャーに消された選手も多い。

 レイトン・ヒューイット、サフィン、中でもアンディ・ロディックはウインブルドンの決勝対決で3度も苦杯を舐めさせられている。09年の決勝は実にあと一歩だった。ファイナル16ー14の逆転劇は、ロジャーが4時間16分の試合の中でつかんだたった1本のサービスブレークによるもの。ロディックはその場にしゃがみ込んで、苦笑いを浮かべるしかなかったのだが、17年に殿堂入りした会見では次のように話している。


最多8度の優勝を誇る王者は常に誰かの壁ともなった。決勝で3度目の対戦となった2009年はロディックにファイナル16-14で勝利 

「ロジャーを嫌いになれる人がいたらお目にかかりたいよ。今回も一番先に祝電をくれたのは彼だった」

 ウインブルドンがロジャーを愛してやまないのは、ロジャーがジェントルマンだからだ。ロジャーをジェントルマンに仕立てたのは、テニスへの愛情、ウインブルドンへの敬意。ロディックを倒した試合後の光景が忘れられない。

 黄金のトロフィーを抱いて場内を一周しながら、フェデラーが珍しく客席に何度もVサインを送った。その3週間後、ロジャーと愛妻ミルカは初めての子供を授かった。生まれたのが双子の女の子だと聞いたとき、あの光景を思い出した――あれはVサインではなかったのだ。ロジャー・フェデラーは2人の子供の誕生をウインブルドンに報告し、祝福して貰いたかったのだ。その気持ちが、聖地での101勝という記録につながっているのだ。


昨年はジョコビッチを相手にマッチポイントを握りながら、新たに導入されたファイナル12-12からのタイブレークで逆転負け。それでも37歳にしてグランドスラムの頂点を狙う力があることをあらためて証明した


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